身体を包み込んでくれるような寝心地と、無理なく頭を支えられている安心感のうちに、三喜雄は少しずつ覚醒していく。夢を見た記憶は無い。本当によく寝ていた。
軽くて柔らかな掛け布団は、暑苦しさを全く感じさせず、エアコンが切れた後に汗ばむことも無かった。左の手首に触れている気持ちいいものは、サンショウウオのぬいぐるみの毛だろう。
何となく、ずっといい匂いに包まれていた。自宅から持ち出してホテルでも使っていた、馴染みのシャンプーやボディソープの匂いとは違う。リネンに染み込んでいるのかもしれない。若い木の葉の匂いだ。
というか、ここはいったいどこなんだろう。この無条件に、自分を歓迎してくれる空間。誰かが、好きなだけ眠ればいいと言ってくれている。
振り返れば、ここ2週間ほどずっと落ち着かない朝を迎えていた。しなくてはならないことをずっと抱えて、これからどうなるのかという不安に絶え間なく苛まれていた。いや、何一つとしてまだ解決していない気がするのだが、少しほっとすることができそうだ。
足許で、かちっと遠慮気味の音がした。扉を開けて、誰か入ってきたのかもしれない。微かな足音がする。しかし三喜雄は構わないと思った。根拠無く、自分を脅かすようなものではないと感じている。
ベッドに近づいてきた人物は、三喜雄がよく眠っているのを確認しているようだ。起きてこないから、心配して見に来たのだろうか。
それは申し訳ないと思い、三喜雄はゆっくりと目を開けた。果たして視界に入ったのは、知らない部屋の白い壁と、カフェオレ色の髪をした背の高い男だった。彼はそっと、まだ寝ぼけている三喜雄を覗きこんでくる。
「おはようございます、起こしましたか?」
まろい低い声に呼びかけられて、三喜雄は現状を把握する。昨夜、この人の家に転がり込んだんだった。
「おはようございます……」
「ごめんなさい、9時過ぎたのでちょっと見に来ました」
えっ。三喜雄は無理矢理枕元に置いた小さな目覚まし時計を見上げた。昨夜は日付けが変わる前にベッドに入ったので、9時間も爆睡したということか。
カレンバウアーは、慈悲深い大天使のように微笑した。
「疲れているなら寝ていて構いませんよ、ベッドの寝心地は良かったでしょう?」
そう言えば、自宅の古いベッドを持って行くから、そんな上等なものは要らないと一度断ったのだった。カレンバウアーの思惑通り、このベッドで泥のように眠りこけた自分が少し恨めしい。
「あ、はい……」
カレンバウアーはちらっと満足そうな顔になり、三喜雄の左に寝ているサンショウウオに目を遣る。そしてあらためて、優しい笑みを浮かべた。
カレンバウアーが三喜雄の中に、不幸にも10歳で逝った息子を探しているのは、事実らしかった。彼が自分を見る目には、確かに幼い子どもに対する愛おしさや慈しみに似たものが含まれている。三喜雄は職場の初等科で、笹森と2人で授業を受け持つ日があるが、笹森が微笑ましげに一生懸命に歌う児童たちを見ていることがある。カレンバウアーの表情は、それに似ていた。
三喜雄が上半身を起こすと、カレンバウアーは朝食の用意をすると言った。自分が起きるのを待っていたのかと思い、申し訳なくなった。
「コーヒーでいいですか?」
問われて、少し迷った。朝だけは、極力カフェインレスにしているからだ。今まで朝食で使っていた、職場の近くの店のモーニングでは、デカフェが無ければ紅茶を頼んでいた。
「あの、あるのなら紅茶のほうが……」
「ティーバッグでよければ、ありますよ」
「それでいいです、すみません」
カレンバウアーは頷き、隣のリビングダイニングに向かった。
ゆっくりと脚をベッドの下に降ろすと、足裏が触れた床はひんやりとしていた。朝の光に少し透けた、オリーブグリーンのカーテンをそっと開けると、雲ひとつ無い真っ青な空がまず視界に入り、その下に白っぽく住宅が広がっていた。割に近い場所に緑がこんもり茂っているのは、公園かもしれない。
よくある日本の風景なのに、輝く窓の外は、これまで暮らした場所の窓から見えた景色を次々と三喜雄に思い出させた。初めて東京に出てきて一人で暮らし始めた芸大生専用マンション、ケルンで沢山泣いたり笑ったりして過ごした古いアパート、そして明日離れる、声楽家としてとりあえずやってみようという、自分なりの決意を持って借りた部屋。思えば、どの場所も好きだった。ここは、好きになれるだろうか。
ふと三喜雄は、寝ぼけて感傷に浸っている場合ではないと気づき、スウェットから腕を抜き始めた。今日の夕方、リサイクルショップが家電と家具を引き取りにくる。明日はばたばたしそうだから、今日中に周辺の部屋の住人と管理人に、挨拶をしなくてはいけない。この部屋の周辺に挨拶するのは、どのタイミングがいいのか、カレンバウアーに確認してみようと思った。