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7月 14

 朝食のあと、三喜雄はカレンバウアー邸の洗濯機で早速洗濯をした。ホテルから持ってきた自分の洗濯物を、カレンバウアー邸で使われている上等そうなバスタオルなどと洗うのは気が引けたが、まあ仕方がない。

 昨夜風呂に入る前に三喜雄を威圧していたそれは、立派なドラム式で、乾燥機能付きだ。カレンバウアーは週に2回ほどしか使わないらしい。ワイシャツはクリーニングに出して、タオルや下着だけを洗っているという。

 冬は雪の日が圧倒的に多い土地で生まれ育った三喜雄だが、母はそれ以外の季節は乾燥機を使わずに外干ししていたし、三喜雄が東京に出てきてからは外干しが基本だ。この家にはベランダもあるのに、一年中乾燥機を使うなんて、贅沢だと思う。

 掃除機をかけようにも、フローリングには埃ひとつ落ちていない。風呂釜掃除は洗剤を買わないとできないので、三喜雄は手持ち無沙汰になった。リビングで英字新聞を読んでいたカレンバウアーは、下宿人がくるくる働くのを微笑ましげに見ていたが、遂に口を開く。


「ありがとう片山さん、でもあなたが家のことをしなくてもいいんですよ」


 三喜雄は、あ、はい、と口籠り、ソファに腰を下ろした。


「私のことは気にせず練習をしたらいいです……もう少ししたら、私は本社の人間とオンラインで会議をするので、部屋に行きます」


 三喜雄は掛け時計を見た。サマータイムのベルリンは朝4時だが、先方が寝ていないのか、随分早起きなのか疑問だった。


「……俺が歌ったらうるさくないですか?」

「あっちの部屋には、ピアノもたぶんほとんど聞こえませんよ」


 身体も目覚めたことなので、三喜雄は遠慮なく楽譜を部屋に取りに行く。窓の外のベランダは広々としていて、夏や秋に椅子を出して夜空を肴にビールを飲んでも良さそうだ。リビングのほうを覗きこむと、外に出されたガーベラがまた少し蕾を開いているのが見えた。

 三喜雄は窓の外の建物が写らないよう、半分カーテンを閉めてから、ベッドしか置いていない部屋を撮影する。そしてSNSに、とある家で下宿させてもらうことになったと、写真つきで報告する。

 楽譜を持ってリビングに戻ると、カレンバウアーがピアノの蓋を開けていた。鍵盤を見つめる端正な横顔に、三喜雄は少し見惚れたが、やや表情に憂いが含まれているようにも見えた。そういえばこの人は、何故ピアニストになる道を諦めたのだろう。


「カレンバウアーさん、俺が弾いてもいいんですか?」


 三喜雄が尋ねると、カレンバウアーは顔を上げ、軽くまばたきした。


「もちろんいいですよ、どうしてそんなことを訊くんですか?」

「だって、普通他人に自分の楽器は触らせないです」


 三喜雄の返答に、カレンバウアーは笑顔になった。


「これは私の楽器じゃないです、来てみたらどういう訳か、この部屋にピアノを用意してくれたんですよ」


 つまり、カレンバウアーが今まで触れたこともない、半分インテリアの楽器だった。


「せっかくだからたまに弾くし、調律もしてますよ……これから片山さんが弾いてくれるなら、ピアノも幸せでしょう」


 近づいてよく見ると、日本のブランドのアップライトピアノは、古そうである。白鍵にやや黄色味があるのも、いい意味で味があった。

 カレンバウアーがソファに戻ったので、三喜雄は立ったまま軽くハ長調のアルペジオを鳴らしてみた。何となく素朴でまろく、優しい音だ。カレンバウアーの声から受ける印象に、少し似ていた。

 三喜雄はゆっくりと発声練習を始める。鳴らしやすい音から、まずは低音に。続いて高音。昨夜よく眠れたせいか、このリビングの響きが意外にいいからか、ちょっと鳴りすぎるくらいだった。

 カレンバウアーが自分を観察しているのを感じたが、集中し始めると気にならなくなった。高校生の時にこの曲集を藤巻から与えられて以来、もう何巡したかわからないコンコーネ50番の練習曲を数曲、1フレーズごとに母音を変えながら歌う。転調したり難しい跳躍が出てきたりした時だけ、ピアノで音を確認した。

 時間になったのだろう、カレンバウアーがリビングから出て行った。基礎練習を終えた三喜雄は、「落葉松」の楽譜を広げた。

 ドーナツマスターのCMでも、特に画像の情報が無いまま歌ったので、どんな映像のバックにこの歌を流すつもりなのかを、フォーゲルベッカーに尋ねる気は無い。ただ、以前この歌を歌った時、メロディのエモーションに振り回されてしまったので、今回は落ち着いて歌おうと思った。 


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