「『落葉松の秋の雨に、わたしの手が、濡れる』……」
声が掠れることもない。何だかんだ言って、とりあえず安心して生活できる場所を確保したことで、三喜雄の気持ちは安定していた。
「『落葉松の小鳥の雨に、わたしの乾いた、眼が濡れる』……」
この歌の最高音はバリトンには少し高いが、三喜雄にとって大きな苦労を強いられるものではなかった。ただこの箇所は、誰かに聴いてもらい、客観的な意見を受ける必要がありそうだ。
1パートずつ丁寧にさらっていると、前回歌った時には考える余裕が無かったことが、いろいろ頭に浮かんだ。
小林秀雄がこの詩に出会った時、作詞者の野上彰は亡くなっていたが、秋の軽井沢の情景を詠んだ詩に、同じ光景をよく知る小林が感動して一気に作曲したという。三喜雄は昔、何故語り手は眼が濡れると言う、つまり泣いているのだろうかと、そればかり気になったが、そこにこだわらなくてもいいように思えてきた。
北海道でも落葉松はたくさん見ることができる。色づいた針葉樹に、ただ雨がしとしとと降り、語り手の心を思いがけず揺さぶる。それはおそらく、陰鬱な風景ではない。
三喜雄は四角い椅子に座った。3連符の伴奏は弾き語りし辛いので、頭の音だけを拾いながら歌う。音楽が良く流れてくれる感じがする。早くピアニストに、伴奏してもらいたい。
三喜雄が最後の音を静かに切った時、リビングの外から、知らない男の声がした。驚いてそちらを見ると、ノートパソコンを手にしたカレンバウアーが身体を半分覗かせていた。
何やってんだこの人。三喜雄は突っ込みそうになったが、また知らない男の声がした。しかもドイツ語で興奮気味に話している。
「いい声じゃないか、ピアニストを今すぐ決めてすぐに録音しろ」
するとカレンバウアーも、パソコンに向かってドイツ語で返す。
「もちろんそうするつもりだ、彼の歌に合う映像を頼むぞ、前の古臭いのは絶対駄目だ」
彼らが自分の歌について話していると理解するまで、少し時間がかかった。カレンバウアーはどうも、会議中の相手に三喜雄が歌うのを聴かせていたようだ。
いつまで廊下にいるつもりだろうかと思い、三喜雄が部屋の入り口のほうに上半身を倒すと、カレンバウアーの姿がしゅっと消えた。変な人だ、仕事で使ってもらうとこっちも知ってるから、別にこそこそしなくてもいいのに……。
ちょっと可笑しくなりながら、三喜雄は次の曲に取り掛かる。「カルミナ・ブラーナ」は毎日少しずつでも練習時間を取り、9月には形にしておきたい。合唱団は9月上旬、つまり大学の夏休み中に一度、3泊4日の全体合宿をおこなう予定で、もしかしたら三喜雄にお呼び出しがかかる可能性がある。
この曲の合唱は、バリトンソロとの絡みが多い。三喜雄は大学院生時代、合唱のヘルプに駆り出されたことがある。特に男声合唱のみの部分が難しく、バリトンソロが特別に練習につき合ってくれて、本当に助かったのだ。むしろ今回、三喜雄のほうから合わせを増やすのを頼みたいくらいである。
ラテン語の歌詞の読みをさらい、ソロだけの歌から順番に歌ってみる。春を告げる歌、酔っ払いの嘆き、色恋に悶える溜め息。オペラのタイトルロール顔負けの、喜怒哀楽のてんこ盛りだ。
全て、色を変えて歌うほうがいいだろうか。いや、それはやり過ぎかもしれない。指揮者には意見があるだろうか? 三喜雄は学生時代から、このソロを歌ってみたいと思い続けていた。だから本当に楽しみだが、あらためて楽譜を見ると、難し過ぎて震えそうだった。
ウェブ会議を終えたらしいカレンバウアーがリビングに戻ってきたことに、入り口に背を向け立って歌っていた三喜雄は気づかなかった。
「『ヴィーナスの命に従えるなら、どんな苦労も厭いはしない』」
音量を調節せず高音をぶっ放したところに、カレンバウアーがすいっと覗きこんできたので、驚いた三喜雄はひゃっと変な高い声を上げてしまった。
カレンバウアーはからからと笑った。
「ごめんなさい、一体どんな顔をしてこんな背徳的な歌を歌ってるのか、気になりました」
そんな言葉どこで覚えるんだと胸の内で突っ込みつつ、三喜雄はカレンバウアーに向き直った。
「やっぱり背徳的って感じるんですか?」
カレンバウアーは、え? と言って目を見開く。明るいリビングで近い距離で見ると、彼の瞳に緑色が混じっていることが、よくわかった。
「私は感じませんけど、毎週必ず教会に行くような大真面目なクリスチャンの中には、これを歌いたくないと言う人もいるそうですよ」
三喜雄は思わず、へぇ、と感心の声を上げた。
「そんなこと、考えもしませんでした」