しかし「カルミナ・ブラーナ」を書いたのは、主に修道院に暮らし神に仕えていた男たちである。彼らは禁欲と清貧に倦み、殊更に性的で堕落した内容の詩をつくった。修道士はインテリ層なので、ラテン語や中高ドイツ語などを駆使している。カール・オルフは、その不埒で美しい詩集の中から、幾つかを選んで曲をつけた。
カレンバウアーは三喜雄の反応に、にっこり笑った。
「真面目な片山さんは歌いにくくないですか?」
「……いえ、むしろ楽しいですよ」
自覚として、三喜雄は特に真面目ではない。性的に奔放ではないと思うが、「カルミナ」に登場する大酒飲みたちの気持ちはややわからなくもない。
「でも、さっきの『落葉松』もそうなんですけど、若い頃みたいに、歌詞に似た自分の知ってる感情をむやみにこめて歌うのを、抑えてみようかと思ってます」
三喜雄は目の前のドイツ人が、自分の言葉を理解しているか気になったが、彼は微笑して頷いた。
「それはどうしてですか?」
「えっと、俺もそれなりにいろいろ経験してきたので、そういう感情を入れ過ぎると、俺自身が歌ってて混乱するというか……」
「今までは、自分の経験に照らし合わせていたんですね?」
カレンバウアーの問いに是と答えるのは、ちょっと微妙だった。これまで恋の歌を一番沢山歌ってきたと思うが、三喜雄の恋愛経験は貧しい。
「そうです、わからない部分は音楽以外の情報を参考にしたり……」
楽譜の情報をきちんと掬い上げて歌え。それは高校生の頃に、藤巻やグリークラブのトレーナーから指導されたことだった。強弱やテンポの揺れの指示が楽譜に無いバロック期の音楽は、時に自分で考えたり遊んでみたりする必要があるが、楽譜に細かい指示があるなら、まず楽譜通りに演奏する。それだけで、ひとまず曲想や感情が浮かび上がる。
そんな話をすると、カレンバウアーは興味深そうに耳を傾けてくれた。
「楽譜通りに演奏することが、まず難しいですね……特に歌は、歌詞もあるし指示も多いですから」
「はい、最近ちょっとそういう基本的なことを蔑ろにして、ノリで歌ってたかなと思って」
じゃあ、とカレンバウアーは少し考えてから問うてくる。
「この間のリンデンバウムは、どうでしたか?」
あの時は、録音に入る前にカレンバウアーから言葉をもらった。その通りに歌った、と思う。
「いろいろ細工しないで、楽譜通りに歌いました」
カレンバウアーは三喜雄をずっと見つめたままである。まるで子どもが、自分で答えを見つけるのを待つようだった。
「ならばきっと今は、楽譜を大切にして歌うのが、あなたにとってベストだということなのでしょう」
音楽に向き合う時、いつも良い音で歌うのは不変の目標として、他に重視すべきことには微妙な変化があると思う。カレンバウアーはそれを理解しているのだ。彼はあの時三喜雄に、楽譜に書かれた通りに歌えばいいと言った。それが良い結果をもたらし、原点に戻るといった感じの、新しい課題を三喜雄に与えた。
「片山さんはやっぱり真面目ですね、こうしていつも音楽に向き合ってる」
三喜雄はそう言ったカレンバウアーの顔から、少し視線を外す。
「……職業音楽家なら、誰だってやってることだと思います」
くすっと笑う声がした。どうも子ども扱いされているような気がしてならないが、まあいいかと思った。
カレンバウアーは掛け時計に目をやる。
「もうお昼ですね、片山さんの練習のきりがいいところで、ちょっと出ましょうか……駅の近くでランチにしましょう」
かれこれ1時間歌っていたので、もう切り上げてよかった。ここで生活することになったからには、周辺の情報を収集するのは大切だ。駅までの道をまず覚えなくてはいけない。三喜雄はピアノの上に置かれたクロスを取り、鍵盤を軽く拭く。赤い鍵盤カバーをかけて蓋を閉めると、きちんと歌えたという満足感を覚えた。