昼を食べたらそのまま旧居に向かおうと思い、リサイクルショップから受け取った書類を鞄に入れた。
「カレンバウアーさん、今夜近所にご挨拶に回りたいんですけど……」
三喜雄は家主に言った。早速朝から騒音を発してしまったので、歌う者が引っ越してきたことを伝えておきたかった。カレンバウアーはわかりました、と応じた。
「私も一緒に行きましょう、お隣りと……ピアノを弾くなら下もですか、2軒です」
あ、そうなるのか。最上階角部屋には、みだりに近所に気を遣わなくていいという特権もあるようだ。
ふと考えると、今日旧居に行き挨拶できるのは、おそらく上と、隣のパーカッショニストだけだ。それに管理人。あと2軒は、三喜雄同様焼け出されており、留守だ。挨拶に必要な粗品は5個と三喜雄は確認した。
カレンバウアーが大きなエコバッグを持ち出したのを見て、買い物をするつもりだと察する。昼を食べながら、家賃や食費、光熱費をどれくらい渡すか、話し合っておこうと思った。
マンションの中でコンシェルジュ以外の人に遭遇しないまま、三喜雄は家主と連れ立って、マンションの外に出た。暑いからか、外にも誰も歩いていなかったが、そこは紛うことなく高級住宅街で、三喜雄が今まで暮らしてきた場所とは、明らかに別世界だった。
高級住宅街にはコンビニが無いが、小さなパン屋や隠れ家チックなレストラン、それに診療所は幾つかある。公園は2筋向こうにあり、朝夕は犬の散歩などで賑わうようだ。上流階級のシンプルな生活を垣間見たような気になりながら、三喜雄はJR目黒駅までの8分間の道のりを、暑いながらも楽しんだ。
駅周辺にはスーパーも、庶民的な飲食店もある。カレンバウアー自身は、台所を使わない訳ではないが、少し仕事が立て込むとつい惣菜を買ったり、食べて帰ったりしてしまうと言った。
三喜雄はずっと気になっていることを、やっと訊くことができた。
「あの、炊飯器を持ってこようと思うんですけど、炊いたら食べますか?」
三喜雄の右に立つカレンバウアーは、意外にもぱっと表情を明るくした。
「食べますよ、去年の秋までたまにご飯も炊いていたんですけど、壊れてしまって……それになかなか、お店で出てくるようには上手く炊けないので、諦めてました」
「あ、ちょうどよかったですかね」
じゃあコメも買わないと、と考える三喜雄が連れて行かれたのは、駅舎近くの脇道に入ってすぐの場所にある小さな居酒屋で、昼は定食を食べさせてくれるらしかった。中年の女性の店員はカレンバウアーをよく見知っている様子で、連れがいるのを見て奥のテーブル席に案内した。
メインの焼き魚の他に小鉢が3つと汁物と、和定食とはいえがっつりとしていたが、これをチョイスするカレンバウアーがドイツ人なので、あるあるかとも思う。ドイツではお昼にしっかり食べて、夜は簡単に済ませる人が多いのだ。
「この店は何でも美味しいですよ、ご飯もこんな風に作りたいとずっと思ってたんですけど」
カレンバウアーは割り箸を割りながら、言った。三喜雄もいただきます、と手を合わせてから、箸を取る。
確かにご飯は美味しかった。いい米を、きちんと炊いている感じがする。これを期待されると微妙なので、予防線を張っておいた。
「たぶん上等なお米をガス釜で沢山炊いたら、美味しいんです……俺の炊飯器は電気でマックス5合しか炊けないんで、こんなに美味しくはできないかもしれません」
カレンバウアーは三喜雄の言葉に、そうなんですか、と軽く驚きを見せた。
「一度に沢山炊くほうが、美味しいんですね」
「はい、でも傷んでしまうから、1日で食べ切れるだけしか炊かないです……冷凍もできますけど、味は落ちますね」
三喜雄の話に頷きながら、カレンバウアーは鯖の身をきれいに骨から外していく。昨夜も思ったが、元々器用なのかもしれない。不器用な外国人に、日本の短い箸は扱いにくいのだ。