三喜雄は勤務先で、日本語での意思疎通に難がありそうな児童・生徒に接したことがない。帰国子女や外国人を受け入れていないのかもしれず、日本語教育を専門にする教員も、たぶんいないだろう。とにかくカレンバウアーの漢字の知識を確認して、国語の教員からアドバイスをもらえないだろうか。
「わかりました、一応教員の端くれなんで、やってみます」
カレンバウアーはにっこり笑った。
「お仕事に支障の無い範囲でお願いしますね」
「はい」
カレンバウアーはこれだけ話せるのだから、読み書きもすぐにできるようになるはずだ。彼は少し楽しそうに言う。
「武藤さんからもたまに教えてもらってるんです、彼女も片山さんと一緒でドイツで何年か勉強していましたから、外国語を学ぶ難しさを知っているので」
「武藤さんは何を勉強してらしたんですか?」
「文学です」
三喜雄はふと、酒池肉林などという言葉をカレンバウアーに教えたのは、武藤だろうかと思った。そして笑いそうになったのを、堪えた。
ゆっくり食事を終えてから、三喜雄は比較的庶民的なスーパーを目指した。引っ越しの挨拶の粗品を買うためだったが、店を回りながら、カレンバウアーがどれくらい店内のPOPなどを読むことができるのか、確かめたかった。
「見てわかるものは問題無いんですよ」
売り場に並ぶ葉野菜を見ながら、カレンバウアーは三喜雄に言う。
「あ、これはわからないから食べたこと無いですね」
カレンバウアーが指差したのは、袋に入った豆苗である。いつも安いので、三喜雄にとってお助け野菜だ。
「とうみょう、っていいます、えんどう豆の芽ですけど、炒めたら美味しいですよ」
「スプラウトですか?」
「はい、豆の風味がします、1分で火が通るから便利なんです」
まあ、野菜はそんなに不便は無さそうだ。三喜雄の予想通り、カレンバウアーが苦労するのは魚売り場のようだった。
「さっき食べた鯖はこれです、鮭は色でわかりますよね、サーモン」
パックされきれいに並べられた切り身を見ながら、三喜雄は説明してみる。漢字で書いてあると、日本人でもわからないことがあるので、売り場には難しい漢字はあまり使われていない。おそらく魚に関しては、カレンバウアーが漢字が読めないことよりも、魚の種類を把握できていないことがネックになっている。
「日本は魚が多いですね、片山さんのふるさとは、魚も美味しいんでしょう?」
カレンバウアーは刺身の盛り合わせに何が入っているのかを確かめて、三喜雄に言った。
「水揚げして店に出てくるまでが早いから、新鮮なんでしょうね……魚って、鮮度が味に直結するので」
「やっぱり函館に行ってみたいですね」
三喜雄は自分に降りかかって災難に気を取られて、カレンバウアーの祖母について母校に尋ねるのを、すっかり忘れていた。
「すみません、来週当たってみます」
「いいですよ、問い合わせなら私一人でもできます」
「いえ、お世話になりっぱなしですから、せめてこれくらいは」
ゆっくりと売り場を移動して、肉が並ぶ冷蔵ケースに来ると、この辺りはまだわかるとカレンバウアーは言う。
「日本人は羊は食べないですね」
三喜雄の故郷では、食べる。東京に出てきて、ラムが売っていないので驚いた。三喜雄自身は禁断症状が出るほどではなかったが、東京に出てきた道民はラムが手に入らず結構悩むのだ。そう話すと、カレンバウアーも目を丸くした。
「そうでしたか、東京は牛肉を食べない人も多い気がします」
「北海道も豚肉のほうがよく食べます、牛肉は関西かな……カレーの肉がね、牛肉なんです」