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8月 10

 日曜日は、晴れて暑い日になった。三喜雄は母校のキャンパスに、ガーメントバッグを持って向かった。汗をかいてしまいそうなので、移動はラフな恰好にして、本番前に着替えることにした。人前で演奏する際は、清潔感も大切である。

 母校のキャンパスは、帰国して教職課程の勉強をやり直した時以来なので、涙が出るほど懐かしいとまでは感じないが、これからここで演奏すると思うと、一抹の感慨はあった。

 来るように指示されていた事務棟に入ると、職員が慌しく行き来していた。三喜雄は一瞬、オープンキャンパスに参加する学生に間違えられかけたが、辛うじてゲストだと認識され、上の階の小さな会議室に案内された。

 今日のゲストで男性は三喜雄だけなので、部屋を1人で使っていいと言ってもらえた。すぐにスーツを出して、ポールハンガーに掛けておく。ほどなくして、今日伴奏してくれる音楽専修科の講師がやってきた。


「あー片山くん、久しぶりだねぇ」

「あっ……お久しぶりです、浜田はまださんだったんですね」


 旧姓浜田、川畑かわばた香澄かすみも大学の卒業生で、2学年上のピアニストだ。顔見知りが伴奏者だとわかり、かなり気持ちが楽になる。


「結婚されてもバリバリ舞台現役って聞いてましたけど、大学で教えてらっしゃるとは」


 音楽専修科の人間は、何かイベントがあると共演することも多かったので、声楽専攻と器楽専攻の仲は良かった。川畑はうふふ、と笑う。


「教え始めたのはこの4月からでね、去年道内のちょっとした賞をもらって、微妙に名が売れたからかな?」

「おお、おめでとうございます」

「いやぁ、片山くんのドマスのCMほどじゃないわ」

「それは比べるのがおかしいです」


 受賞とCM出演では、価値が全く違う。川畑は学生時代から陽気な人なので、ギャグと受け止め突っ込んでおいた。

 彼女はリハーサルの時間を伝えにきてくれたのだった。今日出演するのは、三喜雄の他に、スポーツ専修科を卒業したダンサーと、よく知るヴァイオリニストだ。出演は三喜雄がトップバッターだが、リハーサルは出演順ではないらしい。


「ダンサーさんが照明と音の調整とかあるから、あと15分で始まるの……観ててくれてもいいんだけど」

「じゃあ、お昼食べて講堂にすぐ行きます」


 川畑との打ち合わせが終わると、三喜雄はその場で母が握ってくれたおにぎりを食べた。自分で作るつもりが、母が用意してくれたのだった。

 おいし、とひとりごちつつ2個のおにぎりを胃袋に収めると、三喜雄は本番用の靴と鞄を持って会議室を出た。

 業界の癖で、すれ違う教職員におはようございますと言いかけるのを、無理にこんにちはに直しながら学内を歩き進めると、ヴァイオリンケースを抱えた女性がばたばたと走っているのが見えた。三喜雄は彼女を知っている。


斉藤さいとうさん」


 女性は三喜雄の声に、ざざっと靴音が聞こえそうな急ブレーキをかけた。そして三喜雄をじっと見つめてから破顔する。


「片山くん! ひっさしぶりだね!」

「ご無沙汰してます、年末のヴェルレクに来ていただいてありがとうございました」


 斉藤結衣ゆいは1学年上のヴァイオリニストで、大学を卒業して2年後にアメリカに留学していた。彼女はアイリッシュなどを得意とする、いわゆるフィドラーとして活躍中だ。

 まだ遅刻ではないのにばたついている辺り、時間を間違えているのかもしれない。彼女は学生時代から、そういうところが抜けている。


「いえいえ、あんな大合唱とオケ従えて歌うようになったのかって、おばちゃんは感激しましたよ」

「おばちゃんって、1年上だけじゃないすか……荷物、事務棟の会議室に、楽屋用意してくれてますよ」

「いやもう直接行くわ」

「ダンサーさんが先にリハするそうですけど」


 三喜雄は言ったが、確かに斉藤は身軽で、ダンサーを観たいと言うので、一緒に講堂に向かう。


「伴奏してくれるのってハマリンさんなんだね、講師やってるんだって?」


 斉藤は川畑の話をする。そういえば川畑がハマリンと呼ばれていたなと、懐かしく思い出した。


「はい、だから今日は演者だけでなく裏方も兼ねてらっしゃるみたいで、忙しそうです」

「人使いの荒い学校だねぇ」

「学校はどこでも人使い荒いですよ、たぶん」


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