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8月 18

 帰省中2度目のレッスンを受けに、三喜雄が藤巻の家に行くと、予想もしなかった人物と遭遇した。塚山天音である。


「おっ片山、今からレッスン?」


 Tシャツに綿のパンツという、珍しくラフないでたちのテノール歌手は、藤巻の家の玄関の上がり框から三喜雄を見下ろしている。

 三喜雄はほとんどあ然となって、長いつき合いの男の顔を見たが、彼の後ろで微笑している藤巻を見て、何かがかちっと嵌った気がした。


「今夜飲まね? 俺もう東京に帰るから」


 塚山に言われた三喜雄は、ああ、と生返事をしてしまう。塚山は、後で連絡すると言ってあっさり出て行ってしまった。

 三喜雄は玄関に上がり靴を揃えてから、師の顔を見た。


「あいつに稽古つけたの、先生だったんですね」


 塚山は帰国してから、特定の先生についてレッスンを受けていない。それなのに先月のソロコンサートで、普段歌わない日本歌曲をやけに上手くまとめていたので、感心した。藤巻が集中的にレッスンをした結果なら、納得できる。

 藤巻は三喜雄をレッスン室に導きながら、軽く笑った。


「お正月に直訴されたんだよ、コンサートで歌いたいから歌曲を見てくれってね……三喜雄くんは知ってると思ってた」

「全く聞いてません」


 塚山は今年に入ってから、休暇に帰省する度に藤巻の許を訪れていたようだ。春休みもゴールデンウィークもこの家でニアミスせず、藤巻も隠すつもりは無かった様子だが、三喜雄は何となく不愉快になっていた。

 藤巻は三喜雄をちらっと覗きこみつつ、半笑いで訊いてきた。


「先日の教育大のコンサートの手応えはいかがでしたか? 今日は何を歌いますか?」


 三喜雄はぎょっとして、思わず身を引いた。


「ちょ、何すか、やめてください」

「そんな不機嫌オーラ出さなくても、三喜雄くんは僕の一番弟子だよ」


 自分でもわかるくらい、顔に一気に血が昇った。そして、これまでずっと藤巻が自分だけに教えてくれていたような錯覚に囚われていたことを三喜雄は悟る。この間は受験を控える有望な高校生に会ったし、三喜雄より10歳年上でプロ顔負けの声を持つアマチュアのバスが、藤巻に10年近く習っていることも知っているのに。

 いや、と思い直す。他の人なら構わない。相手が塚山だというのが引っかかるのだ。


「塚山くんは飲み込みが早くて、あっという間に5曲仕上げてきたけどね……そういうのは、三喜雄くんに無い能力だ」


 藤巻の評価は真っ当だと三喜雄は思うが、塚山への嫉妬心(それが不快感の正体だった)を禁じ得ない。ぶすったれたくなるのを堪える三喜雄に向かって、藤巻は続ける。


「でも掴んで離さない力は三喜雄くんのほうが強い、今日も本人に指摘したんだけど、塚山くんは音も歌詞も感覚で捉え過ぎるきらいがあって……このままだと、40代後半になったら、三喜雄くんのほうが説得力のある歌い手になるだろうね」


 藤巻は三喜雄の頭を撫でかねない距離感で、前に立って言った。


「三喜雄くんと塚山くんは得意な歌も声の個性も違うんだから、表面だけ見てやきもちを焼いたりしないように……僕は2人がそれぞれベストな歌を歌えるよう手助けするだけだ」


 全くもって、師の言う通りである。三喜雄はいろいろ恥ずかしくて、言葉が返せなかった。

 藤巻は微笑を崩さず、訊いてきた。


「さて、カルミナも大事だけど『ドイツ・レクイエム』はどう?」


 三喜雄は黙ってブラームスの宗教曲のヴォイススコアを出した。秋のコンサートシーズンの皮切りになるのは、この曲のソロだった。ドイツでソリストデビューした時の曲だが、日本で歌うのは初めてだ。

 少し発声練習をしてから、最初から行くか、と藤巻は言った。そしてピアノの椅子に座ったまま、また三喜雄の顔をちらっと窺う。


「僕のコピーでない歌を聴かせてくれよ」

「……え?」


 三喜雄は開いた楽譜を両手で持ったまま首を傾げた。ふっ、と藤巻は笑う。


「院に入って東京に行ってから、国見さんから僕のコピーになるなって言われ続けたんだってね」


 それを聞いて、どきっとした。国見康平に習い始めてから事あるごとに指摘されて、藤巻のような歌手になりたいと思い続けてきた三喜雄は、かなり辛かった。大学を卒業する時にとある賞を受け、藤巻陽一郎の若い頃のようだと講評をもらって、泣くほど嬉しかった。それなのに、ここまで積み重ねてきたものを、根底から自分の手で崩してしまわなくてはいけないのかと悩んだ。

 しかし国見の指導が、片山三喜雄というバリトン歌手の形成のために必要なことを、本能的には理解していた。だから三喜雄は、どこが藤巻に影響されてしまっているのかを、嫌になるくらい分析した。また、帰省して藤巻に会い、東京で国見から何を教えてもらったかを伝える時、「藤巻のコピー」という言葉を一切口にしなかった。


「あ、まあ……最初の1年はかなり言われました」

「国見さんは、ドイツに送り出す直前まで言ったって話してたよ」


 そうだっただろうか。同じことを言われ過ぎて、もはや国見のダメ出しをスルーしていたのかもしれない。

 最近三喜雄は思う。どんなジャンルの歌手にも、憧れて理想とする先達がいる。没個性にコピーするならそれは物真似に過ぎないけれど、先達の影響を完全に抜くことは難しいし、それさえも自分のものにしていくことが、歌手のあるべき姿なのではないか。

 それはきっと、DNAレベルに深く刻まれた記憶で、死ぬまで背中を追い続けるであろう人との運命的な出逢いの証だ。そんな思いを脳内にたゆたわせつつ、三喜雄は身体の深いところに空気を入れた。

 藤巻が、バリトンソロの曲の最初の音を鳴らした。


「『主よ、私に知らしめてください』……」


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