塚山は新しい店を開拓するのを面倒がるタイプで、三喜雄は何度か使ったことがあるすすきのの居酒屋に呼び出された。店の前で合流して、彼にすぐに確認する。
「明日歌う用事とかあるのか?」
塚山は、無いよ、と即答した。
「明日ゆっくりして、明後日東京に帰るんだ」
ならば多少酒量が多くなっても大丈夫だ。三喜雄は一応心に留めておく。
店はそこそこ席が埋まっていて、2人はカウンター席に案内された。すぐに出された冷たいお手拭きが気持ちいい。
「教育大のコンサート面白かった、卒業生代表してるわファンから掛け声かかるわって、おまえ何なの?」
何なのと言われても困るのだが。塚山はオープンキャンパスの日、ちゃっかり会場に潜りこんでいたらしい。
「羨ましいって意味ですか?」
「いやぁ、そうなんだろうか」
「とりあえず観に来てくれてありがとう、塚山の大学だったら、人選大変だもんな」
2人で小さく笑った。塚山は仕切り直すように訊いてくる。
「片山は学校始まるまでこっちにいるんだろ?」
「いや、明々後日帰る……あ、ビール2つお願いします」
塚山に答えつつ、三喜雄は素早く飲み物を頼んだ。塚山は、三喜雄の意外な返事に驚く顔になった。
「どういう風の吹き回し? 東京嫌いのおまえが」
「10月からいろいろ本番始まるし、実家でのんびりし過ぎるとまずいかなと」
「おおっ、プロの歌手らしくなってきたな」
塚山の意見に同意する要素はほとんど無い。家にはキーボードしか無く、夜に練習しづらいのは学生時代から変わらないので、帰省する度にいつ東京に戻ろうか、迷うのだ。今回は、早く戻る方に傾いただけのことである。
「まあ、あまり帰省してると家主に心配されそうだから……」
三喜雄がぼそっと呟いた時、ちょうどビールがやってきた。軽くジョッキをぶつけ合う。
「そうだ、何で藤巻先生とこ行くことにした?」
三喜雄はさっき自分を煩わせたもやもやをすっきりさせたくて、塚山に尋ねる。彼はビールを3分の1ほど一気に飲んで、おやじのように満足げに息をついた。
「何でって、ソロコンのプログラムがアリアばっかりだと、聴いてるほうも飽きるかなって……それで歌曲を誰にレッスンしてもらおうとなったら、藤巻先生しか思いつかなかった」
「直接凸ったのか」
三喜雄の問いに、うん、と塚山は悪びれずに答える。藤巻は音楽以外のことではそんなに厳しい人ではないので、唐突な塚山の訪問を許したのだろう。少なくとも、三喜雄にはそんな大胆な真似はできない。
枝豆とスライスしたトマトが来て、塚山は割り箸を2膳取った。
「いや、おまえに繋いでもらおうと思ったんだよ? でも俺なんか紹介すんの嫌だろ?」
割り箸を受け取りながら、微妙なところだと三喜雄は思う。
「うーん、黙ってレッスン行ってるのも何か嫌だったな」
「ちょっとは否定しろよ……藤巻先生から聞いてると思ってた」
「先生が全く同じこと言ってた」
すると塚山は、いひひ、と笑う。
「藤巻先生ん家で会った時の片山の顔……ちょっとざまぁ感あったわ」
トマトを口に入れた三喜雄は、今度こそムカッとした。甘酸っぱい野菜を飲み下してから、塚山をじっとり睨みつけた。
「そうだとも、藤巻先生は俺の先生なんだからな、勝手に接触するな」
塚山は芝居がかって声を裏返す。
「ひょええぇ、独占欲丸出しで怖い兄弟子だぁ」
「おまえなんか弟弟子だと認めない」
どさくさに紛れて本音を吐くと、妙に胸の中がすっとした。一応塚山に対してフォローしておく。
「まあそれは冗談として」
「冗談じゃないだろ?」
「うるさいぞ……ただ7月のコンサートの日本歌曲は、良かったと思う」
三喜雄の言葉に、塚山は枝豆を摘んだまま一瞬静止した。そしてにまっと笑った。
「そうか、必死こいた甲斐があったな……これからも歌曲だけまったり見てもらおうと思ってるんだ、藤巻先生に接触する許可ください」
三喜雄も枝豆を摘む。
「許可も何も……俺がどうこう言うことじゃないし」
まだ少し腹立たしい感じはするが、学生時代から歌曲が嫌いで逃げ回っていた塚山が、継続して練習しようとしているのは、いいことだと思う。彼は自分が歌って楽しくない曲は歌わないので、これまで面白くなかった歌曲に何か見出したのかもしれなかった。
「片山は先生の奥様とは話す? よな?」
塚山に訊かれて、三喜雄は黙って頷く。レッスンの後にどくだみ茶のお礼かたがた、藤巻に妙子の容体を尋ねると、前回の三喜雄のレッスンの後、病院に戻り落ち着いているという。彼女も自分も覚悟はできているけれど、三喜雄くんの気持ちを乱すことになるのが申し訳ないなどと師から言われてしまい、涙が出そうだった。
「奥さんを見送る日が近いって考えるのも、悲しむ先生を見ることになるのも辛い」
「……俺は1回しか奥様と会ってないけど、家がこんな大変でもレッスンしてくれるんだよなぁ……」