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8月 21

 刺身の盛り合わせとサラダが来ると、ところで、と塚山が話題をあらためる。


「フォーゲルベッカーのトップの家の居候はどうだ、快適か?」


 刺身しょうゆにわさびを溶く三喜雄の手が、一瞬止まった。


「……うん、下手したら実家より快適だよ、静かだしピアノあるし、ご近所の理解もあるし」

「じゃあ、しばらく引っ越し先探さないのか」


 そういうつもりではないのだが。自分の今の気持ちを言葉にするのが難しい。三喜雄はいかを箸で摘んだ。


「カレンバウアーさんはドイツから来て、俺も北海道から出てきて、孤独感微妙に持て余してる者同士暮らしてるのが、何となく心地良かったりもする」


 塚山は目をぱちくりさせた。


「何だそれ、深いな」

「深く……はないと思うけど」


 メゾン・ミューズの中でも、仕事をどんどん受け始めた矢先に焼け出された三喜雄のことを、心配する声が大きいようだと塚山は教えてくれた。


「フォーゲルベッカーがクラシックの演奏家にとって大事な会社だってのはみんなよくわかってるから、事務所的には片山が贔屓にされてるのは嬉しいみたいだ」

「事務所のためにもノアさんと上手くやれってことなのか?」


 思わず三喜雄が言うと、かもな、と塚山は笑った。


「でも面白い仕事してるじゃないか、ヨーロッパのCMで歌うとかちょっと無いぞ」

「CM関係は俺から獲りに行った仕事じゃないから、ほんとに有り難いよ」


 それは心から出た言葉だった。これからの本番の話になり、塚山は秋冬に合唱曲のソリストを幾つかと、オペラを2本抱えているらしく、なかなか忙しいようだ。


「そうそう、瀧さんから聞いた……酒井さん、『トスカ』のガラコン優先して『カルミナ』のソロ降りて、それが片山に来たんだって?」


 塚山の話に、ああ、と三喜雄は応じた。


「俺はカルミナ歌いたいから嬉しいけど、大学の合唱連盟は酒井さんに振り回されて気の毒だよ」

「トスカに出るとあるソプラノによると、あの人カルミナをおまえが歌うこと知って、譲ってやったけど惜しいことしたとか宣ってるらしいぞ」


 この話は、明らかに三喜雄を不愉快にした。つい音を立ててジョッキをテーブルに置いてしまう。


「譲ってもらったとは知らなかったな、クソ過ぎて草」

「とりあえずそのソプラノには、真実を教えといたわ……瀧さんにもこの話したら、酒井さんのことあらためてヤバい奴認定してた」


 酒井は歌手としてはともかく、人間としては小物なので、そんなにピリピリしなくていいだろう。とはいえ彼は無意識に迷惑を撒き散らすので、距離を保つのが肝要だ。


「塚山もオペラ出る時気をつけろよ、君子危うきに近寄らずだ」

「心配するな、俺はあの人は基本的に共演NG……去年の第九もさぁ、好き勝手なテンポで歌うし、出だしから合唱がわたわたして」


 横浜市交響楽団の、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」のソリストが、今年三喜雄に回ってきたのも、どうも塚山が酒井とは出たくないと、楽団側にちらっと匂わせたことも理由にあったようだ。


「第九の話も、酒井さんのおかげなのか塚山のおかげなのか……」

「いや、あれは横響の動画チャンネルのおかげだろ? まあ今年は一緒に出られるから頑張りましょうや」


 塚山はそう言って、スマートフォンのカメラを自撮りモードにする。そしてレタスを頬張る三喜雄を無理矢理入れて、シャッターボタンを押した。三喜雄は店員に2杯目のビールを頼み、塚山に苦情を申し立てる。


「肖像権の侵害」


 塚山は意に介さず、SNSのアプリを立ち上げている。


「おまえも何か上げとけ」

「一緒に帰省してるみたいに思われるから嫌だ」

「いろんな奴のとこに写り込んでるくせに、何で俺には塩なんだよ」


 それはもちろん、塚山の嫁と言われるのが嫌だからだが、飲み食いしている写真というのが、個人的にどうかと思うのだ。

 ふと思いついて、三喜雄は鞄を開けた。


「今練習してる楽譜出せ」


 は? と言いつつ、塚山も鞄に手を入れる。彼が出したのは、藤巻に見てもらっている、日本の近代歌曲集だった。三喜雄は食べ散らかした皿を寄せて、「ドイツ・レクイエム」と歌曲集をテーブルに並べる。


「ただ飲んでるだけとか、ファンはどっちでもいいと思うんだよな」


 三喜雄はスマホのカメラで、テーブルの上を写した。シャッター音が周囲の喧騒に紛れる。


「互いに練習してる曲について語らったとか、真面目な歌手のふりをする」


 三喜雄の言葉に、塚山は笑った。


「そりゃいいな、でも推しがただ飲んでる写真が好きなファンも多いと思うんだけど」

「俺をそういう意味で推してるファンはいないよ」


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