三喜雄はぷっと笑ってしまった。ノアが軽く覗き込んでくる。
「どうしましたか?」
「松本が家族と観たそうです、嬉しそう」
「よかったです、今から観ますか?」
ノアは自分もスマートフォンを出す。赤信号で車が止まると、戸部がダッシュボードに手を伸ばし、そこから2本のコードを素早く取り出して、ノアに手渡す。ノアはコードを繋いで端子をスマートフォンの端子口に差し込み、戸部はコードの反対側をナビの画面の左下に繋げた。
こんな風にするとミラーリングができると知らなかった三喜雄は、感心しながら2人がセッティングするのを眺めた。信号が変わった時には、ナビの画面に落葉松の立ち並ぶ風景が映り、ピアノの前奏が始まった。
自分の歌をこのような形で聴くことにはやはり慣れない三喜雄だが、CMの雰囲気はとても良いと思った。アナウンスを一切入れずに、「日本の北海道産の大豆からうまれた奇跡の粉を、契約農場で生産された最高級のカカオバターとブレンド」とドイツ語の字幕が説明する。
音楽を切り貼りしてCMの尺に合わせているのは、ドーナツマスターの時もそうだったので仕方がない。しかし不自然さは最小限に抑えられ、北海道のものと思われる穏やかな風景と、濃いクリーム色の美味しそうなチョコレートには、視覚的に魅力があった。
一番最後に、三喜雄と松本のクレジットが出た。一瞬しか映らなくて読めないと言われればその通りで、三喜雄は笑いを堪える。
ノアは、とても良い出来だと言った。三喜雄も、最初のちょっといただけないPVを知っているだけに、よく改善できたなと思った。
「札幌在住で、北海道の風景写真を撮っている女性カメラマンを見つけたそうです」
ノアは楽しそうに説明する。
「彼女はフォーゲルベッカーのチョコレートを知っていたので、CMに写真を使うことを快諾してくれたようで」
「素敵なCMだと思います、あちらのお菓子のCMとしてはおとなしいですけど」
「何だろうと思わせるために、わざとそう作ったみたいですね」
三喜雄と松本に、音楽の使い方に異存が無ければ、すぐにでも放映が始まるという。
「松本さんからは特に気になるところは無いと返事をもらいました、三喜雄はどうですか?」
「たぶん大丈夫だと思います」
「そうですか、家でもう1回だけチェックしましょう」
道が少し混んでいたものの、帰路は順調だった。目黒の坂を少し登ったところにあるマンションの前に、フォーゲルベッカー日本法人の社用車が到着すると、三喜雄はほっとしたせいか、軽く空腹を覚えた。
戸部は三喜雄のキャリーケースを、すぐにトランクから出してくれた。
「お二人ともお疲れさまでした、どうぞごゆっくりお休みください」
「ありがとう戸部さん、気をつけて帰ってください」
ノアは運転手をねぎらう。シルバーのセダンは、ゆっくりとその場を離れた。
正面玄関の中には、もうコンシェルジュはいなかった。三喜雄はノアについてエレベーターに乗り、3週間ぶりに下宿に戻る。相変わらず生活感の無い玄関だが、今や紛れもなく自分の住まいでもあると、三喜雄は感じた。
「お疲れさま、充実した夏休みだったようですね」
ノアから言われて、はい、と三喜雄が答えると、ノアはついと寄ってきて、両腕で緩く三喜雄の上半身を囲った。
「オープンキャンパスのコンサートはよく頑張りました、あの火事をまた少し乗り越えられそうですね」
こめかみの辺りでそう囁かれて、身体の力が抜けそうになる。本当にあの時は、声が出なくなるのではないかという不安に駆られ、心臓がばくばくして目眩がしそうだった。
でも、周りの協力とノアのハンカチで乗り切った。トークショーも合わせて好評だったと大学から聞いている。
じわっと泣けそうなのを堪えていると、背中に置かれた手が、とんとんと優しく動いた。
「本当は空港でこうしたかったんだけど、戸部さんもいたし、行きしなちょっと人目があって嫌そうだったから」