北海道に発つ前に空港でハグしてきたことを、ノアは言っているらしかった。あの時は確かに、ちらちら見られて恥ずかしかった。でも今は誰が見ているわけでも無いので、三喜雄はそっと深呼吸して、クリーム色のハンカチから消えてしまった匂いを探す。
「……すみません、いろいろ心配かけて」
「三喜雄は強い人だとわかってきましたけどね」
しかしほんの1分もしないうちに、こんなところで甘え行動を取っていることが気恥ずかしくなってきた。三喜雄が少し肩を動かしたので、ノアは腕を解く。
「少しだけ待ってください、すぐに食べられるものを昨日買っておいたので」
ノアが洗面室に手を洗いに行ったので、三喜雄は荷解きをすべく自室に向かった。リビングのエアコンは、ノアのスマートフォンから遠隔操作でスイッチを入れることができるが、各自の部屋のエアコンにはその設定はされていない。部屋の中は蒸し暑かった。
三喜雄はカーテンと窓を開ける。涼を取るには意味が無いが、まず換気したかった。キャリーケースから、洗濯物とおみやげを出す。
たまにノアが、窓の開け閉めをしてくれていたのだろう。前のマンションで1ヶ月留守にした時ほど、埃っぽさや部屋のよそよそしさが無かった。
洗濯物を運んで手を洗い、北海道のおみやげを手にリビングに行く。ノアはいつの間にかスーツからTシャツに着替えて、キッチンに立っていた。三喜雄はいつも隙なくスーツを着るこの人が、ファストファッション店で買ったものを着る時の、品を落とさない抜け感が好きだ。
「ノアさん、確実に東京に売ってないお菓子持って帰ってきました」
三喜雄はカウンターの隅に、クッキーとチョコレートのアソートギフトの箱を置いた。目に入った鉢のガーベラは、元気に葉を茂らせている。夏の暑い時期はあまり花をつけてくれないが、この暑さで枯れずにいてくれるだけで十分だった。
ノアはバゲットを切る手を止めた。
「ほう、どこの店ですか?」
「実家の最寄り駅の近くの、個人経営のケーキ屋さんです」
その店の主人は2代目で、親の代から引き継いだ生ケーキの味を守りつつ、手土産にできる乾き菓子の製作にも力を入れているようだと、母から聞いた。
「シュークリームが一番美味しいんです、でも持って帰ってこれないのでこっちを」
「後で一緒に食べましょうね」
あ、俺も食うの? と思いつつ、三喜雄は食事の用意を手伝う。テーブルを布巾で拭き、食器を出した。既に動き始めているオーブンからはいい匂いが洩れ始めている。
「温めるだけのラザニアですけどね、美味しそうに見えたので」
ならばきっと美味しいのだろうと三喜雄は思った。ノアには高級食材への偏愛などはなく、安い料理でも普通に口にするが、さすが食品を取り扱う会社の人間というべきか、舌は確かなのだ。
「いえ、用意していただけるだけで嬉しいです」
自分以外の人間が家にいるというのは、とてもありがたい。ノアが食事を用意してくれたり、洗濯物を畳んでおいてくれたりすると、ほっとする。独りで暮らしていると、そういった家のことも全て自分がしなくてはならず、疲れ果てている夜などは本当に辛い。
ノアは思い出したように言った。
「麻布から連絡はありましたか? 仮縫いをチェックしないといけませんよ、後はウェストコートも忘れないように」
新しいタキシードのことだった。フルオーダーすると、途中で店に数回顔を出さなくてはいけない。
これまでカマーバンドを身につけることのほうが多かった三喜雄だが、ちゃんとウェストコート、つまりベストを作るようにノアから釘を刺されている。着るほうにしてみれば、タキシードや燕尾服のウェストコートは本当に見かけだけの布切れなので、購入も着用も甚だ面倒くさいのだが。
「一昨日メールが来てました、明日にでも行きます」
三喜雄は答えて、先に食卓に着く。日常が戻るのだなと思うのだが、世話を焼いてくれるノアがいることで、今年の夏休み明けは前向きな気持ちでいることができそうだった。