実家の近所で買って持ち帰ったクッキーは、予想以上に美味だった。バターの味がしっかりして、甘さが控えめなのも良い。
コーヒーを淹れてくれたノアも、気に入った様子だ。
「味は英国のショートブレッドみたいな感じがしますね、歯ざわりもいいです」
「また買ってきますね……あ、あと明日、麦茶の代わりにちょっと変わったお茶を沸かしていいですか?」
藤巻妙子にもらったどくだみ茶のことだった。ちょっと苦いと説明すると、ノアは興味を示す。
「それは、緑茶の……渋み? それとは違う?」
「はい、本当に仄かに苦いんです、匂いもあるのでちょっとクセは強いです」
妻が身体のために飲む茶を藤巻が飲まないという話をすると、ノアは微笑した。
「なるほど、何となく想像がついてきましたよ……でも、藤巻さんの奥様には少しでも元気になって貰いたいですね」
はい、と答えるしかなかった。以前国見からちらっと聞いた自らのこれからについて、藤巻は2回のレッスンの際に一切口にしなかったが、もやもやは残る。
「別の場所からちらっと、奥様にもしものことがあれば、藤巻先生が引退するかもしれないと聞いて」
三喜雄がぽつりと話すと、ノアはマグカップをテーブルの上に置いた。
「確かに、大切な人を亡くすという経験は、音楽家にダメージを与えると思います」
「そのこと自体も気になるけど、俺としては先生にはずっと歌っていてほしいです……でも、連れ合いの存在って大きいんだなぁと思ったり……」
ノアは正面から、三喜雄を優しく見つめている。こういう時に彼は、人生経験の浅い、音楽の世界しかほぼ知らない三喜雄が、言葉を尽くして何を言おうとするのか、興味があるらしかった。
「相手が音楽家でなくても、先生にとってずっと一番に歌を聴いてほしい人だったとしたら、歌いたくなくなるものなんでしょうか」
他人の存在が自分の歌いたいという気持ちを左右するという経験を、三喜雄は高校生の時にしている。大切な後輩が理不尽な理由で急に転学すると知った時、もう歌えないと藤巻に泣いて訴えた。
しかしあれは今思えば、後輩との関係性の構築が未熟だったゆえに起きたことかもしれない。コンクールや受験勉強で追い込まれていて、精神的にも普通ではなかった。……それでも結局、歌ったのだったが。
人それぞれだと思いますけれど、と前置きしてからノアは話す。
「おそらく、一度音楽の神様と契約を結んだ人間は、一生音楽から離れられないですよ」
だから藤巻も、もし妙子を近いうちに見送ることになり、歌わなくなるとしても、おそらくまたいつか歌い始めるだろう。確かにそうかもしれないと三喜雄も思う。
「三喜雄に、どうして私がピアノを辞めたのか話してなかったですね」
ノアは何の前触れも無しに、言った。三喜雄はどきっとしたが、ずっと気になっていたことなので、聞く体勢に入る。
ノアは、左手を軽く握ったり開いたりした。
「私の左の薬指と小指は、実はあまり動きません……障害と看做される程ではないんですが、どうしても演奏できない曲は出てくるだろうと言われました」
事実、左手に技巧を求められる曲では、無理をして手首に負担がかかっていたという。
ノアが経営者に転身するための勉強を始めたのは、20歳を過ぎてからだと、三喜雄は本人から聞いていた。音楽大学に進学してから、ピアニストとしての指の可動域に問題があるとわかったのだろうか。
三喜雄が迷いながらそれを尋ねると、そうです、とノアはあっさり答えた。
「私はあまり期待されていないピアニストでしたから、ビジネスを学ばないかと、伯父からずっと言われていたんです……指が動かないと医学的に証明されて、ショックを受けましたが、ピアノから離れる決心がつきました」
「でも濱さんは、ノアさんがアンサンブル・ピアニストとして優秀だったらしいと言ってましたよ」