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8月 27

 三喜雄の言葉に、ノアは目を少し見開く。


「たまたま何人かのソリストの伴奏をして、少し評判が良かったんですが、濱さんはそれを知っているようですね……さすがです」


 ノアは微苦笑した。ああそうか、と三喜雄は胸にすとんと何かが落ちたのを感じた。彼はおそらく、コンサート・ピアニストになりたかったのだ。

 松本咲真もそうだった。しかし評価を得たのは、伴奏をした時ばかりだった。大学院生時代、松本は自分の進むべき道をもがきながら探し、その結果、伴奏者として弾く道を選んだのだ。

 三喜雄が松本の話をすると、ノアは頷いた。


「インタビューで匂わせていましたね……そんな過去の迷いを感じさせない良い伴奏でした、ただ松本さんの場合はもう少し我が出てもいいかもしれません」

「……そう本人に言ってやってください」


 松本にとっても、元ピアニストで耳の肥えたノアの助言は嬉しいだろう。

 ノアはチョコレートの包みを解いた。


「フォーゲルベッカーは日本で東京にしか拠点が無いので、西日本の演奏家の情報が把握しにくいです……松本さんは今まで、私たちもノーマークだったんですよ」


 ノーマークなんて、野球やサッカーのスカウトのようだなと三喜雄は思った。フォーゲルベッカーの「推し演奏家」になったからといって、一気にスポットライトの中に躍り出るようなことは無いのだが、地道に活動する人が誰かに注目されているというだけで、その人の努力を知る人間は嬉しくなる。

 チョコレートが滑らかだと褒めつつ、ノアは菓子の包装紙に貼られた原材料名をチェックし始めた。しかし漢字が多過ぎて、全てを解読できないようだった。三喜雄は包装紙を受け取り、ノアを手伝う。


「カカオマス、砂糖、牛乳……」

「材料からしたら普通のチョコレートですね、何が違うんでしょう」


 ドーナツ生地を揚げてトッピングする程度にしか、お菓子に積極的に関わってこなかった三喜雄には見当もつかず、さあ、とノアに答えた。

 こんな風にのんびり過ごしていると、少し歌いたくなってきた。移動であまり疲れなかったからかもしれない。時計を見ると20時で、小一時間ほど軽く音を出せそうだ。

 三喜雄がノアにそう伝えると、彼は立ち上がって、空になった2つのマグカップを流しに置きに行った。


「伴奏しましょう、何を歌いますか?」


 それはありがたい。三喜雄も立ち上がり、クッキーの箱の蓋を閉める。


「ありがとうございます、もうすぐ学生さんの合宿にお邪魔するかもしれないので、『カルミナ』を……」

「わかりました」


 羽田に着いた時、メゾン・ミューズの瀧に帰京を報告していた。その際、9月上旬の3連休に、合唱連盟の出演メンバーが2泊3日の合宿を都内でおこなうと、連絡があった。

 連盟の運営委員は、三喜雄が良い時に全体合奏に参加してくれるならば、本当に助かるというメッセージをくれていた。以前この曲で合唱を歌った経験から、三喜雄のほうから申し出たことだったが、鬱陶しがられるのではないかと、少し心配だったのだ。

 アップライトピアノの鍵盤蓋を開き座ったノアに、三喜雄はヴォイススコアを手渡した。自分のために、バリトンソロがある曲のコピー譜を用意したが、もうほぼ暗譜している。

 ノアは楽譜を開き、右手を軽く鍵盤の上に踊らせた。音が古いピアノからこぼれる。


「ちょっと楽譜を見せてくださいね」

「あ、俺ちょっと発声します」


 たっぷり息を使って声を出すと、心地良かった。今そんなに良い声で歌えなくてもいいのだが、身体も気持ちも適度にリラックスして、感触も良い。

 完全に全曲ソロの、ゆったりした曲を選んだ。


「『太陽は全てのものを暖め』……」


 伴奏は長い和音だけなので、鍵盤を軽く叩いたノアが、自分の声をしっかり聴いているのが伝わってくる。充実した練習のひとときだった。

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