目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

9月 2

 三喜雄は授業の準備が一段落すると、リビングに戻った。ノアはソファでドイツ語のペーパーバックスを読んでいたが、テーブルに小学校低学年向きの本と書き取りノートが並んでいる辺り、日本語の勉強をしていて、少し疲れたようだった。


「ああ三喜雄、お疲れさま」


 ノアは本から顔を上げた。


「タキシードは予定通り仕上がりそうですね、私のところにもテーラーからメールが来てました」


 三喜雄の知らない間に、ノアがテーラーに前金として、仕立ての見積もり額の半分を払い込んでいた。先週の仮仕立てのチェックの後にそのことを聞かされ、つい溜め息を洩らすと、店長に笑われてしまった。

 その話はせずに、三喜雄ははい、と答えて笑顔を作った。礼を言うのは、完成品を受け取ってからにしようと思っている。

 三喜雄がソファに腰を下ろすと、ノアは本を閉じた。


「楽しみですね」

「……そうですか?」

「楽しみじゃないですか?」

「俺はちょっと楽しみですけど、ノアさんが楽しみにしてるのはどうしてかなと」


 三喜雄の問いに、ノアは目を瞬く。


「新しいタキシードを着た三喜雄が舞台に上がるのを見るのは、楽しみですよ」


 あ、七五三だったな。三喜雄は以前の会話をやっと思い出した。


「タキシードのほうのアー写、撮り直したほうがいいですかね」

「それもいいですね、たぶん写真映えしますよ」


 そういえば、学生合唱連盟の事務局から、フライヤーとパンフレット用のプロフィールを送ってほしいと頼まれたが、スーツの写真でよかっただろうか。年内の他のコンサートでは、全てタキシードの写真を要求されたので、何ならこちらには、すったもんだして準備と撮影したスーツの写真を使ってほしかったのだ。

 そんな話をすると、学生と演奏するのは楽しみかとノアが訊いてきた。


「はい、あまり格安でほいほい出るなって事務所から言われたんですけど……若い人と出るのは楽しいです」

「どんな仕事でも、若い人は現場のマンネリズムに新鮮な風を送ってくれますね」


 ノアの言う通りだと思う。アマチュアの若い共演者たちから、技術的に三喜雄が学ぶことは少ないかもしれない。しかし歌や音楽が好きだというストレートな思いをすぐ傍で感じることは、時に捕らわれそうになるニヒリズムから三喜雄を守ってくれる。

 ノアは続けた。


「ソリストは常に若い演奏家の憧れであり手本です、それでも上手くいかないことがあれば、ごまかしたり隠したりしないほうがいいでしょうね」


 三喜雄も今、大学生たちの合宿に参加して、自分が任されているパートを完璧に歌える自信は無い。まだできないので鋭意練習中ですと、言ってしまっても良いものなのか。


「日本では特にそうかもしれませんが、きちんと向き合っている姿勢が伝われば、周りはマイナスの印象を受けないですよ」


 ノアの話を聞いていると、歌の師たちからは知ることができない学びを得られることも多い。レッスンの時は音楽の技術面の話ばかりになり、別に時間を取らない限り、先生とは雑多な話ができないからだ。


「三喜雄にはたぶん、アマチュアや若い人たちと並んで、一緒に音楽をつくっていくスタイルが合っているように思います……もう少し活動が充実してきたら、声楽を個人で教えるのもいいかもしれません」


 三喜雄は驚き、ソファの上で尻が跳ねそうになった。


「俺がですか? 何もまともに歌えないのに?」

「そんなことはないでしょう? 今まであなたが積み重ねてきたものを、歌ってみたいという人に伝えるのはいいことですよ」


 それは日本の音楽家が、食べていくために取るスタンダードなコースでもあった。三喜雄の大学の同級生でも、器楽科卒、特にピアニストは、演奏活動の傍ら小さい子に教えている者が多い。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?