餓鬼の俺がいる。ランドセルを背負ってはいるが、その背中の部分に斜めに切り裂かれた跡がある。鋭い刃物を使ったものだ。何もいじめに遭っていたわけではない。この傷をつけたのは親父だ。酔った親父が鋭い登山ナイフを取り出してお袋に襲いかかろうとした。俺はとっさにお袋をかばってその前に入りこんだ。ちょうどお袋に向かい合う形で入ったから助かったんだ。お袋に背を向けて――つまり親父の方を向いていたら、ナイフは俺の胴体を切り裂いていただろう。
それは恐ろしい夜だった。俺はそんな幼児体験から、ふつうとは違う子供になったのだと思う。あれが始まりだった。
しかも息子のランドセルを掻ききったことなど全く意にかけることもなく、二人は隣室に転がり込んだ。心配でふすまからのぞき込んだ俺は――母を守ったのだという誇りもプライドも一気に萎んで消失してしまった。
二人は打って変わって抱き合い絡まりはじめていた。裸。パンツすら脱ぎ捨てて。見てはいけないものを見てしまった。
俺は父と母、あるいは親というものを誤解していたのだ。
自分の親であるより先に、二人は男と女だった。
幼くして俺はそれを理解してしまった。
そうして、裂けたランドセルを修復もせずにそれからずっと小学校に通った。教師がガムテープを持って来て貼りなさいといったが、無視した。ときどきはそこに手を突っ込んで中のものをいじるようになっていた。
我ながら妙な癖が出来てしまったものだ。
俺がそのランドセルを使い続けたのは3年弱。そこで小学校を卒業して、グレーの制服とナイロン製の青い鞄が規定になった。
あれからランドセルがどこにいったのか知らない。お袋が早々に捨ててしまったのだろうと思う。
だだっ広い廃工場の隅の地下室。敷地も広く金網で囲われ、そばを幹線道路が走っており、ひっきりなしに車、それも大型車両ばかりが通過している。ここで声を上げても外には絶対に聞こえない。
実はこの場所を秘密の集まりのために探し出したのは俺、肥山だった。今頃それを後悔しても間に合わない。俺はここで空しく横山殺しの犯人に仕立て上げられ、死人に口なしとばかり葬られるのか。
ロープで腕も足もきっちりとイスに固定されていて、頭から流れる血をぬぐうこともできない。顔にかかって気持ちが悪い。何より、割れるようなこの痛みをどうにかして欲しかった。
俺がいる位置からは横山の足だけが見える。杉本はどこへ行った? 姿が見えない。外で携帯を使っているのだろうか。
また恐怖が湧きおこる。
このまま杉本があの階段の先の鉄扉を締めてしまったら、俺は《横山だったもの》と一緒に取り残されて、そのまま死を待つしかないではないか。それだけでも奴にとっては上々だ。人を殺すことにもエネルギーがいる。放置して時が経つのを待つのも手だろう。
この場所を知っているのは南波、杉本、俺。
待てよ、杉本は綿引がくるとか言っていたな。もしあの電話が本当に通じていたのなら。
室内は薄暗くなっているが、熱を発しない古ぼけた蛍光灯がまだ生きていた。室内がぼんやり見える。服を汚した血はまだ赤く、思ったほど時間は過ぎていないのではないかと推測した。時間が経っていれば、もっとどす黒く、かつぬるりとするのではなく、かさついてくるのではないかと思った。
俺の血も赤いんだな、と俺はどうでもよいことを思った。
いっそのこと、青い血ならよかったのに。
見かけは人間でも、本当は人間になりそこなった何か、それが俺だと心の底で俺は固く信じていた。
でも、生きのびたいんだ。誰も俺のことなど認めなくてもいい。ただひたすらに、生きていたいんだ。死んでぼろクズみたいに始末されるのは何としても嫌だった。
たとえ死んだ後のことなど本人には分かりようがないとしても。
手足を縛りつけたロープは道具を使わずに切れるようなものではない。部屋の中を見回した。はさみ、ナイフ、そういったものはもちろん隠されてしまっていた。
ふと気づいた。いつも俺たちを脅かしてきた電気コード。あれならロープを焼ききれるかもしれない。
俺は頭や肩や背中の激痛に耐えながら、全身を使ってイスを動かした。あれを探すのだ。電気コード。何とかしてそれでロープを焼き切ってやる。亀のようなのろさで引きずるように室内をうごめく。
横山の足が見えている場所は後回しだ。なるべく見たくない。それはもはや横山への同情というよりは、自分のなれの果てを見たくない思いの方が強かった。
おかしい。さっきまでテーブルの横の床に設置してあったあの機械が見つからない。電気コードもコントローラーも見つからない。杉本が地下室を出ていくとき、どこかへ隠したのか、そのまま持ち出してしまったのか。深い絶望にとらわれて、俺は動きをやめて激しく息をした。これだけ動いただけでもくたくただ。体力の消耗が激しい。
俺は大きく息を吐いてうなだれた。
なぜ、こんな最期を迎えなければならないのか。
それほどに悪いことを俺はしたか。
小悪事ならさんざん働いた。部下は殴りつけた。ただ一つ、やっていないことがある。人を殺すことだけは、俺はやっていないしやらないと決めていた。こんな惨めな殺され方をするくらいなら、俺も人を殺しておけばよかった。殺したい奴なんて、両手の指にあまるくらいいるんだ。さすがにリスクを考えて殺ってはいないが、奴らの死の報告を聞いたら、にんまりと笑ってしまうだろう。
必死に地下室(そこは案外広くできていた)内を隅から隅へと痛む体を少しずつ引きずりながら徘徊していたが、とうとう限界を感じ始めた。できるだけ早く逃れるための手段を見つけだしたい。でも、俺はフラフラだった。
逃れるすべを考えるのも大事だが、今回の事の真相を知ることも大事だ。訳も分からず殺されるのだけは何としても嫌だ。俺にだって、二九年間生きてきた矜持というものがある。
俺たちは互いに互いの過去を事細かに探り合ったりはしなかったが、考えてみると、南波だけはどこか俺たち三人と違う臭いを漂わせていた。噂では優秀な国立大学の院まで出て博士号を持っているとか。そんな奴がなぜ俺たちみたいなチンピラと行動を共にしていたのか。行動を共にしていると思わせておいて、綿引の直属の部下だったのか。それにしてもしっくりこない。
見かけでは、南波からそういう経歴を鼻にかけたようないやらしさはまったく感じていなかった。三人のうちでは、俺はいちばん奴に好感を持っていた。それがこんな形であっさりと裏切られてしまうとは。
俺はどこまで人がいいんだ。
鉄扉を開ける重い音がした。誰か入ってきた。警戒する俺の前に現れたのは杉本だった。奴は物も言わずイスごと俺を後ろに蹴り倒した。必死に後頭部を上げたが、それでも治ってもいない(手当てもされていない)傷がうずいた。
「おとなしくしてろよ」
氷のような声音で奴は言った。
俺は惨めさに唇をかみしめていた。
杉本は俺を見下ろして、イスごと倒れている俺の胸の上に何かを投げ出した。
あごを引いてみると、あのガラケーだった。
「やるよ」
小ばかにしたような声音で杉本が言う。
「できるもんなら、何とかそれで綿引さんに連絡して命乞いするんだな」
そう言って、また階段を上がって出ていった。鉄扉を締め、鍵をかける音が響いた。
俺は体を横にして胸の上のガラケーを床に落とし、口を使って旧型の二つ折りのそれを何とか開いてみた。画面は何も表示していない。電池が切れているのか、と一瞬思ったが、よく見ると電池自体が抜き取られていた。
「くそ!」
わざわざおれをコケにするためにあいつはここに来たのだ。
確かに俺はあいつを内心小ばかにしていたし、エラそうな態度もとってきた。だが、いちばん下っ端の奴に対しては当然のことだったともいえる。
少なくとも俺は、奴を舐めてはいたが、その分世話もやいてやったはずだ。こんな仕打ちを受けるほどのことをした覚えはない。
――もしかしたら、初めから、そのつもりで俺に近づいた? 天啓のように俺のなかに閃くものがあった。
横倒しになったまま、あいつが「仲間」に入ったころのことを思い出していた。奴はひょろりと背が高かったが弱そうな印象で、いつもびくびく上目遣いで皆を見ていた。大体俺たちは小間使いのような下っ端から、だんだん頭角を現すとこの「仲間」に上がれるようになる。決めるのは綿引だ。俺たちは綿引に会ったことはないが、俺たちの動きは逐一綿引に伝わっているようだった。
ということは、三人のうちに綿引の直属の奴がいるということだ。けれど、よく考えると、杉本はいちばん下っ端でろくな働きもしなかったが、いわば下から上がってきた奴ではないのだ。ひょんなことから振り込め詐欺の出し子をやらされて失敗し、パクられて出てきたばかりだと言っていた。
奴を俺らに紹介したのは横山だったが、横山も上から言われたことをそのまま伝えただけのような気がした。
とにかくやっかいな奴が紛れ込んだと思い、そのなかでは俺は比較的奴に好意的に接してやっていたような気がする。横山の方が容赦がなかった。暴走族のアタマをやっていたことがあるとのたまう横山は容赦なくいつも杉本を傷めつけて、意識もうろうとなったところを例の電流で活を入れているようなありさまだったのだ。
だが俺はもう思考の限界に近づいていた。異様に寒気がする。喉はひりひりとかつえている。こんな状態のまま眠ったら、次に目を覚ますことはあるのか。
しかし意志の力は限界だった。