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第4話 横山

 俺は昔から束縛されるのが大嫌いだった。

 だから小学校も通いはじめるとすぐ嫌になって行かなくなった。不思議なことに、お受験までさせた親もそのことにあまり文句は言わなかった。代わりに家庭教師を呼んできて、大学生というそいつから、大体のことは教わった。そいつは面倒くさい奴じゃなかったから、いつも冗談を言い合って数時間楽しく過ごした。学校に行かないと知り合いが出来ないから、退屈してたんだと思う。

 近所のうるさい連中が陰口をたたくのも気にはならなかった。俺の家が金持ちだから、あんまり大っぴらには言わなかったが、「一人っ子だからって甘やかしてると、後が大変よね」「旦那さんが裁判官だから、余裕あるんでしょ」「え、裁判官がルールを守らなくていいの」なんていろいろ伝わってきた。 

 バカな奴らだ。子供心に軽蔑していた。結局妬み嫉みの裏返しで俗物根性丸出し。

 俺は好きなように生きる。できるもんならやってみろと言ってやりたかった。

 まあ、なんとか義務教育は終えて、当然高校は行かなかった。ただ、そのころから、大学へは行こうと思いはじめた。大学は下らない束縛はないって、あの家庭教師にきいていたしね。

 で、高認をとって、受験勉強に励んだんだ。勉強は嫌いじゃなかったから。俺の退屈を紛らしてくれたのは、親が買ってくれた三匹のトイプードルと、ゲーム。あとは勉強。

 俺は当然のように一流国立大学の法学部を目指した。当然行けると思っていたんだ。だって父の子だからね。

 ところが模試を受けて愕然とした。到底手の届くレベルではなかった。

 俺はなじみの家庭教師をなじり倒し、父には受験に特化した有能な家庭教師を複数雇うことを頼みこんだ。父は理由を言えば、大概のことは聞いてくれる。今回も、俺の望むようにしてくれた。

 さすがの俺も受験までの月日の少なさに焦り始め、新しい家庭教師の言うことをすみずみまで聞いて勉強に励んだ。数か月で効果はあらわれた。模試でもB判定までは行くようになった。俺は内心ほっと胸をなでおろした。これで成績が上がらなかったら、さすがに格好がつかない。父は何でも俺の自主性を尊重し「主体性を育てる」という教育方針だったから、何も自分の跡をつぐような仕事につけとは言っていなかったし、自分と同じ大学や学部へ行けとも言っていなかった。けれど、心の中では当然それを期待しているに違いない。尊敬する父を俺は裏切りたくはなかった。それは俺が自分でそう考えたことだ。

 そんな中、俺は模試を受けにいって、何気なく右斜め前に座っている女子に目を留めた。気づくと、肩くらいの黒髪からのぞいている白い首筋、左耳のほんのりとした薄桃色の耳たぶを凝視していた。

 試験官が来る前に、俺はそっと消しゴムを転がしてそれを拾いに通路を前に歩き、戻るときにその女子の顔を見た。

 清楚で利発そうなきれいな子だった。

 そう、一目ぼれって奴さ。

 その日の試験の出来はまあまあだった。俺はもう、ほぼ自信を取り戻していた。時間が来るのを焦れて待ち、終わるとその女子のあとをつけていった。 

 その子の後ろから歩道を行き、駅の改札を通った後はほぼ並んだ。さりげなく距離を保ちながら、同じホームに入り、同じ電車に同じドアから乗った。

 その子は受験参考書を取りだし、片手で吊革につかまりながら読みはじめた。さりげなくその参考書を見て、すぐにわかった。彼女は俺と同じ大学を志望している。学部はどこだろう。キャンパスが違うことになるとよくない。どうにかして志望学部を訊き出したくなった。

 彼女が呼んでいた参考書を閉じた。次の駅で降りるのに違いない。俺も一緒に降りる心づもりだ。案の定、駅名がアナウンスされ、ドアが開くと彼女はホームに降りた。俺もすぐに降りて、彼女のすぐ横に立ち、思い切って声をかけた。

「君、さっき○○模試会場で一緒だったよね」

 彼女はさっと表情を消して、明らかに警戒しているのがすぐに分かった。そこで、俺はカバンから先ほどの模試の問題と自分の受験票の控えを出して見せた。彼女の表情が少し緩んで安堵を見せた。

「実は同じ教室で受けてたんだ。ずっと道々同じ方へ行くから、つい面白くなって声をかけちゃった。驚かしてごめんね」

 優しく言うと、ようやく彼女は微笑んだ。俺は胸をなでおろした。

「この後、時間ある? ちょっと駅前のカフェでも入って、一緒に答え合わせしてみない。何点くらいとれたかなぁ」

「ああ、少しなら大丈夫です」

 彼女は小さな声で答えた。俺はもう有頂天だ。これで、彼女に関する情報をいろいろと訊きだせる。

 駅前はひらけていた。俺は素早く視線を動かし、手ごろなカフェを見つけた。

「あそこ、俺よく使うんだ。あそこでいいかな」

「どの辺りに住んでるんですか」

 何気ない彼女の質問に内心焦りつつ答えた。

「ここから歩いて十分くらいのマンションに家族で暮らしてる。君は?」

「私はここから少しバスに乗って、緑地区に家があります」

「そうか」

 あとでスマホで位置を確認しようと決めた。

 カフェは時間がら案外空いていて、俺は彼女と四人掛けのテーブルに向き合って腰かけた。あらためて正面から彼女を観察する。実に清々しい印象を受けた。白い肌、ほんのりと紅い頬。黒髪が肩まで下りている。服装も派手過ぎず品がいい。高級ブランドではないが、かえって好もしく思えた。一言でいえば、清楚だ。

 彼女の持つ参考書に目を走らせる。内容から文系であることは分かった。ということは、同じキャンパスになる可能性が高まる。俺は内心にんまりした。今のうちにしっかり仲良くなっておいたほうがいい。大学に入ったら、新たな虫どもが群がるような気がした。今のうちに、がっちりと……。

「俺は、法学部を受験するつもりなんだ。君は?」

 できるだけ気さくな口調で訊いた。彼女は少しはにかんで、「文学部です」と答えた。これはいい。キャンパスはずっと一緒になる。

「ただ」

 言いにくそうに彼女は付け足す。

「ちょっと判定は厳しくて、私大の方に行くかも」

 焦りが背中を走る。彼女がいない大学ではもはや入る意味もない。

「そうなの。じゃあ、さっそく答え合わせしてみようよ」

 問題用紙をテーブルにそれぞれ出し、模範回答集と比較しながら赤ペンで印を入れていく。お互い黙々とその作業をし、最後に点数配分を見て合計した。点数を見てぎょっとなった。彼女の方が、点数が高い。これで判定が厳しいわけがないではないか。

 そこで疑念が生じる。彼女は俺を警戒して予防線を張っているのかもしれない、と。

「君、すごいね。僕より正答率が高い」

 彼女は目を伏せる。

「で、さ。これからお互い励まし合って近況を報告しないか。ほら、情報交換にもなるし」

 彼女は俯いたままだ。

「スマホ、貸してくれる?」

 そういって俺は彼女の右手のそばにあったスマホをとった。彼女は顔を上げて目を丸くする。

「LINE、交換しておこう。これでいつでも好きなときに……」

「すいません。もうそろそろ帰宅します。家の人が心配するので」

 呆気にとられている俺の前にカフェの代金を小銭で置いて、彼女は去っていってしまった。何をそんなに急に慌てはじめたのか。時間がないならそう言えばいいものを。俺はやや気を損ねたが、それでも連絡先をつかんだことで満足だった。

 自己紹介がまだだったが、それはLINEを通じて後でやってもいい。そう思った。それが躓きの始まりだった。

 帰宅して自分の部屋に入ると、さっそく彼女に電話しようとしたが、登録したはずの彼女のアイコンが出てこない。 急に怒りが湧き上がった。

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