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二〇一七年六月二日

 二〇一七年六月二日。

「ナイスボール!」

 外角低めに、糸を引くように決まったストレート。

 乾いた音と共にミットが鳴ると、信二は軽快な声でそれを讃え、余韻を味わうように、ボールを掌で転がしてから、ふわりとピッチャー・東仁へと返した。

 その胸の奥では、ひっそりと感嘆の声を漏らしていた。

 重い。三年前より、確かに重く、速い。

 あの頃は未完成だった球筋に、いまは芯がある。力任せではなく、技と意志が宿っている。

 うん、いい球だ。

「……一旦、このくらいでいいや」

 東がグラブを外しながらそうつぶやく。信二は無言で頷き、その言葉の裏にある納得を感じ取った。

 そしてふたりは、いつも通りの足並みで、ブルペンをあとにした。

「肘の調子、良さそうだな」

「ん? あぁ、そうだな。確かに調子は悪くない」

 東仁。第二甲府高校野球部のエースは独特のフォームが特徴だ。

 左腕のサブマリン投法。投球フォームが潜水艦に似ているため名づけられたその投げ方は、まるで地を這うような動きをする。もちろん打者にとっても厄介で、制球も抜群に安定している。今年の県内でも、間違いなく屈指の投手だ。そう胸を張って言える。たとえそれが身内であったとしても。いや、だからこそ、なおさら誇りに思う。

 だが、そんな東でさえ、昨年までは控え投手に甘んじていた。努力を怠っていた訳ではない。実力が無かった訳でもない。理由は一つ。チームには、絶対的エースと呼ばれる存在。一年生の輿水大気がいたからだ。

 彼が入学してきたとき、正直、東はまるで歯が立たなかった。中学の頃とはフィールドが違う。実力の差は明白だった。

 けれど、大気は持ち前のセンスと、何より負けず嫌いな練習量で、あっという間に順応していった。

 輿水大気という男は、正直に言えば、わがままな男だ。ビックマウスで、自信家で、時折見せる意気地なさが、子どもっぽさを強調している。だが、ひとたびマウンドに立てば、別人だった。

 試合が始まれば、その集中力は鋼のように研ぎ澄まされる。唸りを上げる暴力的な速球、打者の膝をえぐるような軌道のカーブ。あの瞬間の彼は、誰も寄せつけない孤高の存在だった。

 だが、その大気は、ある日を境に、突然姿を消した。

 戦力としても、精神的な支柱としても、彼の不在はあまりに大きすぎた。

 チームには虚脱感が漂い、「第二甲府は終わったな」。そんな他校の冷ややかな声が、風に乗って届くようになった。かつてのライバルたちも、もう誰も本気ではぶつかってこない。ただ静かに見限るような目だけが、グラウンドに注がれていた。

 そんな中で、東がエースナンバーを背負った。それも、自己申告であった。

 プレッシャーは想像を超えていたはずだ。だが彼は、それをまるで冗談のように笑い飛ばし、明るさで塗り替えていった。

 無理をしているのかもしれない。彼の表情を見ると、そう思う瞬間もある。それでも、彼がこのチームにいてくれて、本当に良かったと心から思う。

 とりとめのない会話を交わしながら歩いていると、不意に東が足を止めた。

「どうした?」

「いや……工藤って、本当にすごいなって思ってさ」

 東の視線の先を追うと、グラウンドの隅でキャッチボールに励むひとりの選手の姿があった。

 工藤 光。五月に転校してきたばかりの二年生だ。

「正直さ、最初は“戦力になってくれたらラッキー”くらいにしか思ってなかったんだ。けど……もう、完全にチームの一員だよな。朝は誰よりも早く来て、自主練を黙々とやってる。練習メニューだって、手を抜かずに全部こなしてるしさ」

 東の言葉に、信二も静かに頷いた。

 確かに光は、チームに自然と溶け込んでいた。まだ入部して日が浅いというのに、投球にはすでに貫禄があり、しなやかで迷いのないフォームは見る者を惹きつける。

 そして何より、その人柄がチームに温かさをもたらしていた。常に爽やかな笑顔を絶やさず、誰にでも分け隔てなく接する姿勢は、上級生である自分たちにさえ、どこか心地よい刺激を与えてくれる。

「確かに、完璧だな。まだストレートは微妙だけど……この短期間で、ここまでやれるなんて。正直、ちょっと驚いた」

「あぁ。でも、何より……」

 東は何か言いかけたまま、言葉を切った。その顔に、さっと陰が落ちる。信二はその表情の変化を見逃さなかった。

「なんだよ。気になることでもあるのか?」

 しばしの沈黙の後、東はぽつりと呟くように言った。

「……いや。エースナンバー、取られないようにしないと、な」

 一瞬、信二の目が丸くなる。だが次の瞬間、思わず吹き出していた。

「お前さ、そんなこと気にしてたのか?」

「いや、あいつ、親の転勤で来た転校だから、公式戦も出られるだろ? ……なんか、焦っちゃうよな」

 東のそういう、変に律儀で、素直なところは信二にとって少しばかり心配でもあり、同時に微笑ましくもある。

 けれど、それでも信二は確信していた。

 東こそが、このチームのエースだと。

 三年目を迎え、プレッシャーも重圧も知り尽くした上で、それでもマウンドに立ち続ける覚悟がある。東は誰よりも、投手という立場に対して誠実だった。

「大丈夫だ、東。今は自分の投球だけに集中していこうぜ」

「……ああ、そうだな」

 東は自分の頬を軽くぱちんと叩くと、深呼吸をして肩を大きく回した。

 気持ちを切り替えるように、空を仰ぐその表情は、どこか清々しい。

 その様子を横目に見ながら、信二はふと、グラウンドで汗を光らせる光の背中に目をやった。

 彼が投じるボールの向こうに、この夏の熱が、かすかに立ち上っていた。


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