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二〇一七年六月五日

 二〇一七年六月五日。

 放課後にも学園祭準備が入り込む、いわば特別期間が始まった。

 学校全体が、どこか浮き足立ったような慌ただしさに包まれ、私もまた、クラスのお化け屋敷の準備に追われる日々が始まった。

 放課後の時間は削られ、必然的に個人練習の時間も減っていく。仕方なく、私はいつも通り、始発電車に乗り、朝の時間を自主練に使うことに決めた。

 早朝の甲府駅は、何度訪れても、胸の内をそっと撫でるような心地よさがある。

 まだどこか夜の名残を感じさせる空気は少し冷たく感じ、でも澄んでいて、深呼吸をすれば肺の奥まで清められる気がした。

 南口のエスカレーターを降りると、ひんやりとした朝の風が、ポロシャツの隙間から肌をかすめた。

 信玄公の像が、変わらぬ表情で街を見守っている。その傍らにある地下の駐輪場へと向かい、自転車のロックを外す。

 その「カチャ」という音でさえ、まだ眠っている街の静寂を破ってしまうようで、思わず肩をすくめる。

 駅から西へ、気象台東の交差点を左へ折れると、視界が一気に開ける。

 まっすぐに伸びるアルプス通り。その先に、朝焼けを受けて淡く輝く新荒川橋が見えてきた。

 もう、気持ちの整理はついたはずだった。

 けれど、こうして橋に差しかかると、決まって思い出してしまう。あの子のこと。

 それは痛みと共にある記憶だけれど、ただ苦しいだけじゃない。

 どこかで、確かに嬉しかった。温かくて、誇らしくて、けれど触れるたび胸の奥を締めつけるような感情。

 言葉では捉えきれない、ラベリングのできないその想いに、私は向き合うこともせず、ただ「整理がついた」と思い込むことでやり過ごしているのだと、自覚している。

 ふと、信号が点滅し始めた。

 眠気ではない。けれど、意識が少しだけ遠くへ漂っていたのだと気づく。

 橋を渡り、角の駄菓子屋の前を通ると、やがて左手に校門が見えてきた。

 校舎の窓はすべて閉じられ、まだ朝の静寂を湛えている。用務員さんがひとり、無言で敷地を掃いている音だけが響いていた。

 あの子がいなくなってから、この校舎はどこか空虚だ。

 もちろん、建物は変わっていない。いや、劣化は多少している。それでもただ、そこに立つたび、あの子がいた日々の“残響”が耳の奥に蘇る気がする。

 けど、それは、私の感情が勝手に風景を塗り替えているだけなのかもしれない。学校という無機質な存在に、私自身の寂しさを投影しているだけ。

 私は譜面台を運びながら、校門近くの朱雀会館。校舎から独立した会議室兼合宿場へと向かった。そこが、我が吹奏楽部にとってのホームグラウンドである。

 用務員さんがその鍵を開けるのを待つ間、ふと立ち止まり、風の匂いを吸い込む。

 心の整理は、できたと思っていた。でも、実際にはまだどこかで、あの子の影を探している。

 探していると気づくたび、どうしようもなく自己嫌悪が押し寄せる。

 だって、私は、あの子を……。

 そんな思考が胸の奥に広がり始めた、その時だった。

「おはようございます!」

 突然の声に、はっとして振り返ると、そこには息を切らしたユニフォーム姿の野球部員が立っていた。おそらく朝のランニングを終えた直後なのだろう。額にはうっすらと汗が滲み、頬も少し赤らんでいる。

 ここ一ヶ月、ほぼ毎朝のように顔を合わせている。忘れようがない。信二の後輩、工藤光だった。

「おはよう。相変わらず早いのね」

「ルーティンですので!」

 スラリとした体格に、整った顔立ち。信二が初めて彼を見た時、「モデルかと思った」と言っていたのも頷ける。まるで朝の空気に溶け込むような爽やかさがある。

 工藤光。私より一つ下の二年生だった。

「それにしても、えらいわね。一日も欠かさず続けてるなんて」

「それを言ったら先輩こそですよ。毎朝、会ってますからね」

「んふふ、それもそうね。……なにせ、私は去年の秋からこうしているし」

 それは事実だった。

 去年の夏、コンクールで西関東大会に進めなかったこと。それが、私にとって大きな挫折となった。

 難度の高い曲を選び、練習を重ねた。演奏当日の手応えも十分で、「第二高校は必ず上に行くだろう」と誰もが確信していた。

 しかし、結果はまさかの落選。

 表彰式で名前が呼ばれなかった瞬間の、あの会場のざわめき。あの音は、今も耳に焼きついている。

 だから私は決めた。秋の芸術文化祭、そして冬のアンサンブルコンテストでは、絶対にリベンジすると。

 それが、始発での自主練という新たな習慣につながった。

 毎朝の冷たい風に何度心が折れそうになったか分からない。それでも、よく毎日始発電車で通ったものだと思う。

「あはは、すごいですね、本当に。でも印象的でしたね、あれは」

「……あれ?」

「ええ。僕が初めて、朝練で先輩に会った日のことです。とても、驚いた顔をしていた」

 ズキン、と胸の奥が締めつけられた。それも、無理はなかった。

 あの子が帰ってきたのか。

 そう、一瞬でも思ってしまったからだ。

 思い返せば、去年の秋冬。

 本来、朝が弱かったはずの私が、始発に乗って練習に向かえたのは、きっと一人じゃなかったから。

 朝練に行けば、必ずあの子がそこにいる。

 同士と呼ぶには、きっと違うのだろうけれど。

 それでも、不器用な私には、その言葉しか思い浮かばない。

「あ、また何か考えてますね?」

 工藤くんが、にやりと笑って、少し身を乗り出してくる。

 思わず一歩、身体が後ろへ引いた。

「ち、違うよ。ただ……ちょっと昔のことを思い出していただけ」

「へえ、昔のこと……」

 彼の瞳が、ふいに真っ直ぐになった。

 その柔らかな声に、どこか鋭さが潜んでいる気がして、胸がざわつく。

「前、言っていた……“あの人”ですか?」

「……え?」

「初めて会ったとき、驚いた顔をしていましたよね。『ごめんなさい、人違いでした』って」

 ふとした一言に、胸の奥がチクリと痛んだ。

「あ……そんなこと、言ったっけ。変ね、覚えてないな」

「言いましたよ」

 私は咄嗟に前髪に手を伸ばす。焦ったときの、無意識の癖。どうして、こんなときにまで出てくるのか、自分でも呆れてしまう。

「それに、こうも言ってました。『いつか、その人のことを話してくれる』って」

「……それは……ん? 待って! そんなこと言ってないと思うけど!」

「ふふ、ばれましたか」

 そう言って彼は肩をすくめ、軽く笑った。

「そろそろ行きますね。三浦キャプテンや東さんたち、来る時間なんで」

 彼はあっけらかんとした様子で手を振ると、朝の光の中へと姿を消した。

 嵐、というほどではない。けれど、通り雨のように、どこか心をかき乱す存在。

 嫌じゃない。むしろ話しやすい。なのに、どうしてか、胸の奥に小さなざわめきが残る。

 それはときめきとも、不安とも、緊張とも違う。

 名前を与えるには、まだ早い、あるいは必要のない、複雑な感情。

 そう。さっき橋を渡ったときに感じた、あの曖昧で輪郭のない、ラベリングできない感情と、どこか似ている。

 答えは出ない。けれど、心が微かに揺れていることだけは、確かだった。

 私は黙って楽器ケースを開き、トランペットを構える。

 冷たい金属の感触と、空気の澄んだ静けさが、少しだけ背中を押してくれた。

 朝の朱雀会館の前で、私はそっと、あの応援歌のソロを吹いた。

 去年の夏。苦しみの渦中で、唯一、心から楽しかったと思えるあの瞬間。その記憶が、音とともに、静かに胸に蘇った。


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