目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

二〇一七年六月十二日

 二〇一七年六月十二日。

「じゃあ、それでは来週、オーディションを行う。以上、解散」

 顧問の一言で部活が終わると、朱雀会館の大会議室に一瞬だけ静寂が訪れた。普段なら、そのまま賑やかな会話が始まるはずなのに、今日は何も言葉が交わされない。誰もが楽器を手にして、ただ自分の練習場所へと向かう。何せ、今年のコンクールの自由曲は難しい。

 吹奏楽コンクールの高校A部門では、課題曲と自由曲を演奏する。課題曲は決められた候補から選択するが、自由曲は学校の特色を最も反映できる。

 私たちの今年の自由曲は、アメリカの作曲家ジェイムズ・バーンズの『交響曲第三番』である。顧問があのとき、急遽追加した候補曲である。

 この曲は約四十分にも及ぶ壮大な作品で、華やかさとドラマチックさで観客を圧倒する吹奏楽の名曲だ。同時に、演奏の難しさでも有名であり、ミスがどうしても目立ちやすい。

 しかし、選曲は部員全員の多数決で決まった。ほぼ全員が賛成。

「私達の最後に相応しいと思わない?」

 瑠璃は初めてこの曲を聞いた時、とても興奮した様子で私に語ってくれた。おそらく、その興奮したその場の雰囲気からも、皆同じ印象だったと思う。曲の背景を知る、私以外は。

 そして、この交響曲の中でも、演奏するのは第一楽章、第三楽章、第四楽章。特に制限時間に合わせるために、その各楽章の中でもどこを演奏するかが肝心。今回は顧問と瑞希と三人で相談し、九州の名門校が全国大会で演奏した部分を参考にすることに決めた。

 そして、今回の曲のポイントは「表現力」。

 作曲者の個人的な悲しみを強く反映させたこの曲は、愛する娘を失った悲劇を背景にしている。つまり、どれだけ感情移入できるかがカギとなる。あまりにも、高校生では想像できない世界の話。そこで、部員全員で各楽章に自分達なりに物語を加え、イメージの解像度を上げることにした。

 まず第一楽章。

 ティンパニーの力強いソロから始まり、すぐに全楽器が一体となって、激しい演奏が繰り広げられる。この楽章の重く圧迫感のある音楽は、私たち全員に「混乱」や「絶望」といった感情を呼び起こした。だからこそ、この楽章は、大切な人を突然失い、その痛みで立ちすくむような瞬間を描くことにした。

 次に第三楽章。

 この楽章は、対照的に、静かで美しいメロディーが特徴的だ。音楽が流れるたびに、思い出の断片が浮かび上がり、懐かしさと温かさが胸を締めつける。そんな情景をみんなで共有した時、私は無意識に、あの子のこと。そう、輿水大気君を思い出していた。

 もともと、大気君の存在は知っていた。知らないはずがない。何しろ、有名人だったのだ。

『巨人・堀内の再来か?』

 そんな見出しが紙面を踊るのも、無理はなかった。

 中学時代、シニアリーグで全国準優勝にまで駆け上がり、名だたる強豪校から次々とスカウトが届いたという。

 けれど大気君は、それらすべてを断った。

 たった一つの理由で、地元の県立・第二甲府高校に進学したのだ。親友の信二と、甲子園を目指すために。

 作り話のように聞こえるかもしれない。でも、それは事実だった。

 彼は一年の六月からエースナンバーを背負い、創部以来初となる、甲子園予選・県大会決勝までチームを導いた。

 私も、その試合をよく覚えている。

 突如、体調を崩した井上先輩の代役として、私はトランペットソロを任された。任されたという嬉しさもありつつ、それ以上に胸が潰れるほどの重圧があった。

 それは私自身にも言えることだったが、マウンドに立つ大気君の姿にも、同じような影が差していた。

 素人の目にも明らかだった。大気君は何かを抱えながら、それでもなお投げていた。

 あのときの私にとって、ただ、あの陽炎の向こうで、ひとり苦悩を抱えながら戦っている選手。それが、最初に大気君に抱いた印象だった。

 けれど。けれど、である。恋というものは、時に記憶の序列を根底から塗り替える。

 大気君への最初の印象も、そのとき感じた距離感も、すべてはあの瞬間に吹き飛んでしまった。

 去年の十月。台風が町を襲った早朝、まだ薄暗い新荒川橋の上で、私は大気君と出会った。

 そして、そこからすべてが始まった。

 それからというもの、私たちは毎朝のように顔を合わせ、互いのことを少しずつ話すようになった。趣味のこと、授業で分からなかったこと、時には、誰にも言えないような悩みすらも。

 私はもともと、恋愛には淡白な方だったと思う。告白されたこともあったし、顔立ちが整っている人に心を動かされたこともあった。けれど、それ以上に踏み出すことは、なかった。

 好きになって、付き合って、うまくいかずに別れる。

 そんな当たり前のような結末が、怖かった。

 部活も勉強も、心が不安定になるとすぐに揺らいでしまう。だからこそ、私は自分を守るようにしていた。

 でも、大気君は、その堅く閉ざしていた私の感情に、そっと手を差し伸べてくれた。

 不安が消えたわけではない。それどころか、時折、胸を締めつけるほどに怖くなる瞬間だってあった。

 それでも、大気君となら、ずっといたいと思えた。

 いや、正確には「思いたくなった」というよりも、「そう思わずにはいられなかった」。

 大気君は、そんな新しい私の一面を、まだ私も知らなかった私自身を、静かに教えてくれたのだった。

 大気君とより親しくなったのは、去年の十一月十五日。そして、わずか一か月後の十二月十五日、彼は突然姿を消した。短く、そして、濃密な時間だった。

 大気君は部活で忙しいはずなのに、私たちの時間をたくさん作ってくれた。朝練の前に顔を見せてくれたり、週末には一緒に遊びに行ったり。私たちが行く場所は、いつも限られていたけど、愛宕山にある小さなプラネタリウムで見た星空は、今でも鮮明に心に残っている。作曲者のバーンズが、第三楽章を書いたとき、彼もきっと、娘との思い出の中で、そんな風に感じていたのだろう。

 そして第四楽章。

 悲しみを乗り越え、前へと踏み出すような明るくドラマチックな楽章が始まる。

 パーカッションが心臓の鼓動のように響き、生きる力が湧き上がる。音楽が新たな一歩を踏み出す勇気をくれるかのように、前向きなエネルギーが感じられる瞬間だ。

 ストーリーが完成した瞬間、胸の奥がずんと沈むのを感じた。

 職員室で顧問からこの曲の話を聞いたとき、どうしても大気君を思い出さずにはいられなかった。特に第一楽章と第三楽章の部分は、自分の経験と重なり、どうしても、心がモヤモヤしてしまう。

 瑞希や瑠璃、そして他の二、三年生も、私の過去を知っているせいか、ストーリー完成後、どこか遠慮がちな態度を見せたのも分かる。

 でも、もう私は大丈夫だ。

 大気君とのことには、ちゃんと、折り合いをつけられた。だからこそ、この曲を通じて、前を向こうと決めた。

「先輩~! さっきの合奏の時の音、めっちゃ良かったです!」

 またそんな過去のことを考えていると、同じパートの後輩。二年生の田中雪が抱きついてきた。

「ちょ、やめてよ、雪ちゃん!」

「えー、だってほんとにすごかったんだもん! カッコいい先輩にはこうやって褒めないと!」

 その笑顔は、まるで春先の陽だまりのようで、気がつけば私は何度も救われていた。そうだ、この子にも、私は何度となく手を引かれていた。あの、言葉にできないほどの絶望と、毎日のように繰り返した謝罪の中で。

「ありがとう。でも、雪ちゃんも、すごくいい音だったよ」

「えへへ、ありがとうございます。ん~、でもやっぱり、メリハリが難しいですね」

 その言葉に、私は小さく頷いた。確かに、その通りだ。

 正直に言えば、この曲は、思っていた以上に繊細で、深い。向き合えば向き合うほど、その難しさを実感する。

 特に、第三楽章と第四楽章。

 過去の儚い記憶と、そこから切り替えた未来への喜び。その二つを、どう音に乗せればいいのか。どうやって“音色”という無形の言葉で、感情を伝えればいいのか。

「よし、もうちょっと練習してみようか」

「はいっ!」

 明るい声とともに、私たちは朱雀会館の大会議室を後にした。

 いつもの朱雀会館の入口近く、少し風通しの良い場所へと歩いていく。

 譜面台を立て、楽器を構えた瞬間、額に滲む汗が、季節の移ろいを教えてくれる。

 そのとき、ふと耳に届いたのは、グラウンドの方から響く野球部の掛け声だった。

 その声は、遠くで誰かがまだ頑張っていることを知らせる、やさしい音の粒。まるで、今この瞬間の私たちにそっと寄り添う、心のサウンドトラックのように感じられた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?