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二〇一七年六月二十日

 二〇一七年六月二十日。

「はぁ……」

 放課後の教室に、ため息がひとつ落ちる。

 机を前方に寄せ、後方ではお化け屋敷の装飾作業が進められていた。段ボールを壁に見立て、ガムテープでつなぎとめる。教室の片隅には、すでに山のような資材が積まれ、ガムテープの端がところどころに張りついている。

 甲府では、市内の高校が軒並み同じ月に学園祭を開催するため、毎年この時期、近所のスーパーから段ボールとガムテープが姿を消す。それは、もはやこの街のちょっとした風物詩だ。

 けれど、そんな微笑ましい季節の風景とは裏腹に、私の心は重たく沈んでいた。

「あらあら、せっかくオーディションに受かったってのに、その表情はどうしたの?」

 瑠璃が、困ったような笑みを浮かべながら声をかけてくる。

「んー……だって、受かったけど、演奏、あんまり良くなかったし」

「もしかして、メリハリのところ?」

「うん、そう……」

 私の言葉に、瑠璃の顔から笑みが消え、代わりに静かな眼差しがこちらを見つめてきた。

 その表情に、私は一瞬、心の奥で“しまった”と思う。でも、すぐに、その思いを振り払った。

 もう、あの時とは違う。

 瑠璃は、私の過去を知っている。だからこそ、もう隠す必要なんてない。むしろ、親友だからこそ、こうして弱い部分を見せられる。

「どうすれば、もっと上手く吹けるのかな」

 私のつぶやきに、瑠璃はただそっと頷き、何も言わずに隣に寄り添ってくれた。

 二人で、段ボールで作った即席の障子に、赤い絵具で手形をつけていく。

 まるで血のようなその赤は、どこか無邪気で、そして少し懐かしい。ひんやりとした絵具の感触が、指先から子どもの頃の記憶を呼び起こす。

「ねぇ、瑠璃……メリハリって、何なんだろうね。雪ちゃんと一緒に、瑞希にアドバイスもらいに行ったけどさ」

 ペタ、ペタ。

「お、出た。毎度おなじみ瑞希塾。それで、先生は何と?」

 ペタ、ペタ。

「『練習あるのみ』。以上。雪ちゃん、終始プルプルしてた(笑)」

 ペタ、ペタ。

「うわぁ……さすが瑞希。でも、千紗だって、もう十分練習してるじゃん」

 ペタ、ペタ。

「あはは、ありがと。でも、そういうの、今はいいかな」

 ペタ、ペタ。

「そう……」

 そこで瑠璃の手が一瞬止まったのが分かった。

 彼女は、気づいている。

 この問題が、ただの「練習不足」で片づけられるほど、単純じゃないってことを。

 音が出ないわけでもない。技術が足りないわけでもない。

 私は、私自身が、自分の中に、見えない怪物を作ってしまっている。

 そして今、その怪物が作り出したトンネルの中で、身動きがとれなくなっている。

「でも、明けない夜はないからね」

「へえ」

「……何?」

「いや、千紗がそういうこと言うなんて、ちょっと意外だったから」

「あはは。まあ、実際は受け売りだけどね」

「ふーん。旦那?」

「ちょっと、信二はそんな言い方しないでしょ(笑)。ほら、工藤君だよ」

「え? 誰それ?」

 その瞬間、瑠璃は赤い絵具のついた手で、私の手首をがしっとつかんできた。目がきらきらしてる。

「ちょっとちょっと、誰誰? ねぇ、誰よ!」

「やあね、前に信二が言ってたじゃない。二年生の転校生、野球部の……」

「あ〜なるほど。……いや、ちょっと待って。なんで知ってるの?」

「彼、朝一で学校来るの。六時半とか? だから自然と顔合わせるようになって。で、なんとなく話すうちに、仲良くなったってだけ」

「へぇ……。でも、千紗って信二と付き合ってるんでしょ?」

 私は思わず、訂正を求めるように声を上げてしまった。

「ち、違うし! 全然そういうのじゃないってば。ただの先輩後輩。ていうか、彼だって野球部なんだし、私と信二の関係くらい、当然わかってるでしょ」

「んー……まあ、そうかもね」

「なにその顔」

「んー、千紗ってさ、意外と……あれだよね」

「あれって何よ」

「うん、あれ」

「いいなさいよ」

「拒否」

 そのまま、勢いに任せてじゃれ合い始める。手は赤い絵具でべったべた。二人で笑いながら押し合いへし合いしていると、教室の前方で段ボールを運んでいた信二がこちらを見て、首をかしげていた。その視線にふと気づいて、ふたり同時にぴたりと止まり、なんとも言えない恥ずかしさがこみ上げた。

「ちょ、もうやめてよ」

「あはは、ごめん。でも千紗さ、よかったね」

「何が?」

「朝の自主練に、新しいお仲間ができてよかったじゃん」

 その言葉に、瑠璃の悪意がないことは分かっていた。

 むしろ、本心から「よかった」と思ってくれているのだろう。

 でも、”新しい”。

 その一言に、どうしても、その前の仲間のことを思い出さずにはいられなかった。

 二〇一六年十二月十五日。

 去年のあの日、私は甲府・湯村のカフェで、一人で彼を待ち続けていた。

 グラウンド整備の業者の手違いで、野球部の練習は急遽中止に。ちょうどアンサンブルコンテストの後で、私の放課後練習もなかった。

 偶然が重なって、大気君は「もしよければ」と、私をデートに誘ってくれた。

 あの大気君が。普段は自分からあまり誘ったりしない人が、私が行きたがっていたカフェを提案してきた。

 そのことが、嬉しくてたまらなかった。

 胸の奥が少し弾んで、店内の席に腰を下ろしながら、彼との日々を思い返していた。

 大気君が想いを告げてくれた、あの朝から、もう一か月が過ぎていた。

 冬の空気は、肌にしんと冷たく、それでいて不思議な透明感を帯びていた。何もかもが静かで、凪いだ湖面のような時間のなか、私はいつも通り、早朝の朱雀会館前を歩いていた。

 変わったことといえば、あのデートのあと、私たちは少しずつ、言葉の重さや沈黙の意味を意識するようになっていた、ということ。けれど、それ以上に関係が進んだわけでもなく、日々は静かに流れていった。私には、それが心地よくもあり、少しだけ物足りなくもあった。

 だから、油断していたのかもしれない。

 その朝、昇りかけた光が朱雀会館をかすかに染める中、大気君が小さく声をかけてきた。

「先輩……」

「おは――」

 続く言葉が、ふいに喉の奥で止まった。

 その瞬間の、彼の表情。今でも、まぶたの裏に焼きついている。

 ためらいと覚悟が同居した眼差し。頬にうっすらと浮かんだ紅潮。それはまるで、真冬の朝にだけ咲く、はかなくも凛とした花のようだった。

 ああ――。これが、人が想いを告げるときの顔なのだ。

 胸の奥が静かに高鳴った。言葉ではなく、その「瞬間」そのものが、私の心に触れてきた。

 今まで誰よりも、何よりも、美しいと思った。

 そのときの大気君の表情が。

 それから、二人で過ごした時間は、どれもこれも忘れがたいものばかりだった。特に、あのプラネタリウムの日のことを思い出すと、心が温かくなり、今でも胸の奥にその記憶が鮮やかに残っている。星々が瞬く中で、無言のまま手を繋いでいたあのひとときが、私にとっては宝物のような時間だった。

「大気君がね、こんなことを言っていたの」

「そして、大気君はこんな風に驚いていて……」

「その後、大気君はこうなって、こんな表情をしていて……」

 話が尽きることなく、私はその思い出を瑠璃に語り続けた。だが、瑠璃はそれを聞きながら、ひとつのため息をついて、少し呆れた顔で言った。

「それで、どうなの?」

 その言葉に、私は一瞬、何のことを言われているのか理解できなかった。だが、瑠璃の目が静かに私を見つめていることに気づき、すぐにその意味が分かった。瑠璃はさらに深く私を見つめながら、ため息交じりに言葉を続けた。

「それで、引き伸ばされた返事はどうするの?」

 正直なところ、私たちの関係はもう、校内で噂になるほど広まっていた。しかし、それに対して、私の心には一切の嫌悪感は湧かなかった。むしろ、少しだけ嬉しさすら感じていた。だって、大気君と付き合いたい。それが私の本当の気持ちだったから。衝動的にでも、「はい」と言ってしまいたかった。けれど、私はそれができなかった。

 なぜだろうか。

 私は、彼のことが誰よりも、どうしようもないくらい、心の底から、本当に愛している。大気君には、本当に。いや、本当に幸せでいてほしい。心から、純粋にそう願っている。

 だからこそ、私は彼女として、果たしてどれほどのことができるのだろう。彼に対して、私は何かを与えられるのか。与えることができるのなら、それは何だろうか。自分にできることは、どれほどあるのだろう。

 何しろ、私は今、初めて本当に大切にしたい人と出会ってしまったのだ。この先、こんなふうに運命的に心を動かされることなど、二度とないかもしれない。そんな人と出会って、そして付き合ったとしても、もし私が彼を傷つけてしまったら? もし、うまくいかず、最終的には友達としてすらいられなくなってしまったら?

 そのことを想像しただけで、私は足元が崩れるような気がした。おそらく、私は立ち直れない。そんな不安に、胸が押しつぶされそうになった。

 瑠璃は少しあきれたようにため息をつきながら、私を見た。

「乙女ね~」というその言葉は、どこかからかいのようでありながらも、少し優しさが滲んでいた。その軽い言葉が、なんだか私の心に響く。

「でもさ、そろそろいいんじゃない?」

  瑠璃は続けた。

「千紗が真面目で心配性なのも分かるけど、もう既に上手くできてるじゃん」

「でも、ねえ……」

 私はその言葉に続けようとしたが、瑠璃はそれを遮るように言った。

「彼だって、勇気を出して告白してくれたんだから、真摯に応えてあげたら?」

 瑠璃の言葉が、私の胸に刺さった。その指摘は、私が避けていた現実を突きつけるようで、思わず顔を上げた。少し躊躇しながらも、彼女は続けた。

「じゃなきゃ、他の女に取られるよ」

 その一言が、私の心を凍らせた。まるで氷の塊が私の胸に沈み込んでいくような感覚があった。

「え!!」

 私は声にならない声を上げた。大気君が、他の誰かに取られてしまうのか? その考えが、まるで突然、心に深く突き刺さった。

 瑠璃は私の驚いた表情を見て、すぐに言葉を取り繕うように弁解した。

「ごめんごめん。でも、もう大丈夫だよ。千紗の気持ちも分かるしさ。いきなり最初から上手く付き合えなくても、大気君となら、一緒に上手く付き合っていく方法を模索できるんじゃない? それができる相手だからこそ、好きになれたんじゃないの?」

 彼女の言葉に、私の胸の中で少しだけ重く沈んでいた不安が、薄れていくのを感じた。だからこそ、今日返事をしようと決めた。

 しかし、待ち合わせの時間が過ぎても、大気君は現れなかった。部活が休みだと聞いていたが、遅れる理由が思い当たらなかったわけではない。掃除が長引いていると連絡が事前に来ていた。だからこそ、私は自分に言い聞かせた。「三十分くらいなら、平気だよ」と。

 それでも、告白の返事をするということ自体が、思った以上に緊張する。大気君が真摯に告白してくれたあの日のことを思い出しながら、私は自分がちゃんと返せるか心配だった。『返事したい』とラインを送っておきながら、今さら臆病になってしまう自分に、少し呆れた。

 それでも、時間が過ぎ、三十分が過ぎ、一時間が過ぎても姿は見えない。何度かラインを送ったが、返信はない。電話をかけても、応答はなかった。心の中で、なぜか、だんだんと不安が膨らんでいく。

 その時、隣の席に座る女子高生たちの話が、耳に飛び込んできた。

「ねえ、第二高校の近くで大きな事故があったんだって」

 その言葉が、私の背筋を凍らせた。

 まさか、と思う気持ちが頭をよぎり、急いでツイッターを開く。

 しかし、情報は断片的で、詳細はまったく分からなかった。部活やクラスのグループラインにも、何の知らせもなかった。それでも、私の中で何かが確かに変わり始めていた。

(まさか。うん。まさかね。またあの日の寝坊と同じだよ……絶対に)

 自分にそう言い聞かせながら、少しでも安心しようと努めた。けれど、そのとき、スマホが震えた。バイブレーションが耳に届き、思わず画面を見ると、信二からの電話だった。(まさか……ね。うん……大丈夫なはず)

 自分にそう言い聞かせながらも、私は少しの間ためらった。怖くて、少し不安で、そしてそれでも、電話ボタンを押した。

「もしもし……」

 信二の声が、電話の向こうから響いた瞬間、全身を凍りつかせる何かが私を貫いた。普段の、どこか冷静で落ち着いた声ではなく、今の信二の声は、まるで何かを引き裂かれるような叫びを必死に抑えているかのようだった。

「ばか! 何ですぐに出ない!」

 その言葉は、私の脳裏に焼き付き、心臓を抑えつけるように圧し掛かってきた。どこかで嫌な予感が走り、冷や汗が背中を伝う。

「早く来い! 大気が、大気が、」

 その一言が響いた瞬間、私の世界が一瞬で崩れ落ちた。血の気が引き、まるで自分の体が空気のように軽くなったような錯覚に襲われる。何も分からないまま、カフェを出て、ただひたすらに足が動いていた。

「どうしよう、どうしよう、どうしよう」

 その繰り返しが、頭の中で渦を巻く。

 急いで向かう先は、中央病院。そこまでの距離が一キロちょっとだということだけは、薄っすらと覚えている。もう夜も深く、街灯がちらちらと光る中、私は無我夢中で走り続けた。

 途中、頭に浮かぶ些細なこともあったが、どれも瞬時に吹き飛んだ。ああ、会計を忘れたとか、自転車を置きっぱなしだとか、そんなことは今の私には微塵も重要ではなかった。ただ、ただ、今すぐにでもあの場所に辿り着かなければならない。

 息が荒く、足がもつれそうになりながらも、無理やり足を進める。途中で目を閉じれば、あの声が聞こえてきそうで怖くて、目を見開いて走った。

 そして、病院に到着したその時、時間が止まったかのように感じた。

 病室の中で、大気君は全身血まみれで、静かに横たわっていた。顔には白いシートがかけられ、何もかもが生々しさを失っている。すぐにそれが大気君だと分かるが、その背にかかる冷たい空気が、すでに彼が「彼」でなくなったことを告げていた。

 信二が横に立っていたが、その姿はひどく疲れていて、目には潤んだ涙を浮かべていた。それでも、言葉は出ず、ただ静かに空気を切り裂くような沈黙が続く。彼の目は、私が感じる以上に深い絶望を隠しきれず、私を見つめている。

 そして、私の足元から力が抜け、身体が冷たい床に崩れ落ちた。先ほどまでの熱い興奮と慌ただしさは、完全に冷えきってしまい、病室の冷たさが私の全身を包み込む。

 あの大気君が、今や冷たく静かに横たわっている。その事実が、胸を締めつけ、痛みとして確かに感じられた。

 私の朝練仲間は、こうして消えていった。彼の告白から、たった一か月であった。


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