二〇一七年七月五日。
高校最後の学園祭は、まさに劇的な幕切れを迎えた。
フィナーレは、体育館でのバンド演奏。ステージに立つ仲間たちの演奏に合わせて、全校生徒が声を合わせ、手を振り、ジャンプし、青春の一瞬を燃やす。そんな光景が、予定されていた。
だが、運命は思いがけない演出を加えてきた。
曲がサビに差し掛かり、会場が最高潮に盛り上がったその時だった。体育館の床が、不意に中心から軋み、沈んだのだ。ガタン、という鈍い音が場内に響き渡った瞬間、笑い声と歓声が一気に凍りついた。
息を呑む静寂。
誰もが何が起きたのかを飲み込めず、時間が止まったかのようだった。
けれど、その直後、誰かが吹き出したのを皮切りに、堰を切ったように笑いが広がっていった。生徒たちは腹を抱え、先生たちは頭を抱える。顔面蒼白になった数人の教員と、生徒たちの爆笑との対比が、なんとも学園祭らしい結末を演出していた。
そして祭の熱気が消えぬまま、週が明ければ、いよいよ野球部の県大会が始まる。
だからこそ、大会直前の練習後、信二とふたり、短い時間だけでも息抜きをしようと約束した。
場所はイオン。
フードコートで軽食を済ませ、私たちは店先をぶらぶらと見て回る。緊張感に包まれているかと思いきや、信二の歩く姿は驚くほど自然体で、あのグラウンド上の鋭さは影を潜めていた。
「いや、あの体育館、すごかったな」
「ね。先生たち、完全に真っ青だったし」
「松田と須賀も、下手したら過呼吸起こすんじゃないかって顔だったぞ」
「えっ、あの二人が? まさか、何か仕掛けたとか?」
「おいおい、あのクラスのお化け屋敷『ブギーマンVS貞子エピソード3~怒りの犬鳴峠~』の仕掛け人コンビだが、さすがにそこまでの仕込み力は、無いだろう。でも、あったら逆に天才だわ。あはは」
信二の笑い声は、どこまでも伸びやかで、聴いているだけで心が軽くなる。私もつられて笑ってしまい、肩が自然とほぐれていくのが分かる。
「……これから、忙しくなるね」
「だな。でも、こういう時間、大事だろ」
「絶対に、勝とうね。お互いに」
「ああ。千紗も負けんなよ」
信二の真剣な目が、私にまっすぐ向けられる。その目には確かな決意が宿っていて、私も自然とやる気が満ち溢れてくる。
「そういえばさ、千紗。学園祭、他のクラスって回った?」
「ん……あんまり。忙しくてさ」
「なんで?」
「瑠璃たちの係が、思った以上に人がいなくて。あの“朱雀祭マジック”ってやつのせいでね」
「朱雀祭マジック?」
「クラスごとのオリジナルリストバンドを交換して、そのままカップル成立しちゃうっていう、毎年恒例の謎イベントよ。付き合ってもいないのに、リストバンド渡された瞬間、なぜか“運命”みたいになっちゃうの。不思議よね、あの空気」
「なるほどな。つまり、デートに行くために係をすっぽかしたわけか」
「そうそう。結局、私も巻き込まれて、最後は案内係までやってた……ほんと、信じられる?」
話しながら、苦笑いしか出てこない。でも信二は、ふっと吹き出した。
「相変わらず、みんな自由すぎるな。あ、そういえば。うちの後輩のはじめが、そのマジックで彼女できたらしいよ」
「えっ、あのはじめ君が?」
思わず大きな声を出してしまい、信二が少し驚いた顔をした。
「……知ってたっけ、はじめのこと」
「うん。午前中ちょっと時間があったから、二年二組の“占いの館”行ってみたの。ほら、雪ちゃんのクラス。私と同じパートの。そこで雪ちゃんに、野球部の子たちを紹介してもらって」
「ああ、りんとか光も二組だったな。あと、光もか……。にしても、はじめと放送部の子ってのは、予想外だった」
信二は、わずかに口元を緩めて言う。
「まあ、たぶん長くは続かないだろうけどな。あいつ、ちょっと浮かれすぎてるし」
その言葉に、私もつられて笑いかけた。けれどその笑顔の奥に、ふと浮かんだ別の顔があった。
工藤君。彼も誰かとリストバンドを交換したのだろうか。
「そういえばさ、野球部の転校生の工藤君って、最近どうしてる?」
ふいに問いかけると、信二は少し眉を上げた。
「どうって?」
「占いの館で、そういえば彼には会えなかったなって」
「へえ、そうなんだ」
信二は、ちょっと意外そうな顔をしたあとで、ぽつりと語り出した。
「光は、ピッチャーとしてすごく優秀だよ。球速が特別速いわけじゃないけど、こちらのサインの意図を汲み取って、的確に投げてくれる。リズムも合うし、何より……真面目で、努力家だ。背番号を勝ち取るために、誰よりも汗をかいてきたと思う」
「努力家、かあ……」
「いつも朝一番に学校に来てるらしいよ。ほら、千紗も朝は早いけど、グラウンドまでは来ないだろ?」
「あーまあね。でも、前は朱雀会館の方でランニングしてたから、たまに彼と会ったけど……そういえば、最近見てないな。学園祭で久しぶりに顔を見たけど、なんか少し様子が変だった気がする」
あの時の工藤君。笑顔は変わらず爽やかだった。けれど、どこかに曇りが差していたような。そんな印象が、ふと脳裏に蘇る。
「……もしかしたら、プレッシャーかもな」
信二の声は、少しだけ静かだった。
「プレッシャー?」
「うん。……あいつも、相当しんどかったと思う。転校してきたばかりの奴が、いきなり背番号をもらうって、周りが黙ってるわけないからな。だから、言葉じゃなくて行動で、信頼を積み上げてきたんだと思う。自分がどれだけここで本気かって、証明するために。……だから、朝の余裕もなくなったんじゃないかな」
「なんかさ、信二……お父さんみたいだね(笑)」
わざと冗談めかして言うと、彼は思わず吹き出した。
「やめろって……でも、まあ、あいつってさ」
「ん?」
一瞬、何か言いかけて、けれど彼は口を噤んだ。
「……いや、なんでもない。とにかく、俺たちは甲子園を目指す。それは変わらない。だからさ、吹部も、全力で応援してくれよな!」
「うん、熱中症で倒れるくらい、全力でね」
「おい、倒れるな!」
冗談混じりの声が、イオンに響いた。ほんの一瞬、周囲のざわめきが遠のいた気がした。