二〇一七年七月二十九日。
西関東大会への出場が決まった。長年の夢がかなった。
しかし、部内は静まり返っていた。
コンクールの県大会後、朱雀会館に戻った私たちは、無言で土橋が読み上げる審査員のコメントを聞いていた。
「次の審査表のコメントを伝える。課題曲は丁寧に演奏できていた。楽譜通り忠実だ。しかし、自由曲には悪い影響を与えている。結論として、曲に振り回されている。コントロールが不十分だ。以上」
その言葉に、誰もが胸の奥を突かれた。なにせ、自覚があったからだ。
野球応援の後、あれだけ喜びに沸いた私たちは、どこか浮き足立っていた。練習でも集中を欠き、細かいミスが目立つようになった。それなのに、なぜか、自分たちも野球部のようにうまくいくんじゃないかと思ってしまった。その楽観的な期待が膨らみ、部の雰囲気は悪くなかった。むしろ、落ち着きがなく、何かがおかしかった。
土橋や瑞希の厳しい声にも、気持ちを引き締めることができず、そのままコンクール当日を迎えた。そして本番。演奏は最悪だった。
課題曲まではなんとか集中できたけれど、自由曲では完全に崩壊。練習よりも曲のスピードが上がり、溜めるべきところで溜められず、表現すべきところを表現できなかった。まるで早口言葉で話しているかのように、淡々と曲が進んでいく。
気がついたら、やばいと思いつつも、誰もコントロールすることができず、演奏は終わった。
それでも、なぜか私たちは勝ち進んだ。
今年、高校A部門に出場した学校はたまたま少なかった。そもそも、近年の少子化の影響か、A部門と少人数編成部門であるB部門を行ったり来たりしている学校がちらほらと存在していた。今年はそれらがまとまってB部門に出場し、A部門には出なかった。
また、A部門でも他校の調子が悪かったらしい。
今年は例年にないほど暑い夏だったため、調子が上がらなかった学校もあったという。そのため、私たちは運よく、最後の枠で代表に選ばれた。まさにおこぼれの中のおこぼれ代表だ。
表彰式後、ただただ白けた気分が広がっていった。表彰式でステージに立った私と瑞希は、代表のトロフィーを持って、みんながいるホール外の集合場所へ向かった。
その途中、惜しくも代表枠を逃した他校の生徒が号泣しているのを見かけた。
見ていられなかった。
逃げたくなった。
「最後の審査員コメントだ。課題曲は素晴らしい。しかし、自由曲の解釈が弱い。今年、なぜこの曲を選んだのか。この曲で何を伝えたいのか。特に金管、特にトランペット。よく考えて、もう一度イメージをし直した方がいい」
その言葉を聞いた瞬間、部員たちの視線がちらっとこちらに向けられるのを感じた。
けれど、もうどうでもよかった。
今年の審査員には、あの有名なトランペット奏者がいる。それくらいの指摘が来ることは予想していた。
「とりあえず、皆。今年は野球応援もあって大変だったな。でも、三年生、念願の西関東大会出場おめでとう」
土橋のその言葉は、空虚に響いた。私たち三年生の心には、何ひとつ響かなかった。
やがて土橋が一、二年生を先に帰らせると、朱雀会館には、三年生だけが残された。
「とりあえず、三年生、お疲れ様」
土橋が口を開き、少し間を置いてから続けた。
「さっきは一、二年生もいたから流したが、どうする? 来週からは甲子園の応援で吹部もついていくことになるが、そもそもお前たちは大学受験も控えている。何より、今、部活を引退することもできる」
その言葉が落ちた瞬間、朱雀会館の空気が凍りついた。
『引退』
まさかそんな選択肢がここで示されるとは。しかも、それを顧問の口から……。
私たち三年生は、顔を見合わせることすらできなかった。ただ、胸の奥で何かが折れる音がした。
「正直、今日の演奏。最悪だったな」
土橋は苦笑しながら続けた。
「俺自身、たぶん野球部のことで浮かれていたのかもしれない。それは悪かったと思っている。でも、それにしても、今日のあの演奏はなんだ? 技術どうこうじゃない。ただ、ふわっとしている。それだけのものだ」
土橋の言葉が容赦なく響いた。
「こんな状態で、西関東大会に出たらどうなる? 正直、惨めな思いをするだけだぞ。もちろん、思い出作りって意味なら出場してもいい。ただし、それに本当に意味があるのか? さっさと引退して、将来のために、受験に専念したらどうだ?」
心に突き刺さる言葉だった。
土橋が私たちのことを思って言ってくれているのは分かる。でも、何も言えなかった。悔しい。だけど、声にならない。
野球部の勝利後、あれほど感じた興奮や喜びが、今はどこか遠い世界のもののようだった。
校門に向かってトボトボ歩いていると、不意に視界の先に人影が見えた。
「よお!」
信二だった。まるで私を待っていたかのように、そこにいた。陽を背にした彼の笑顔は、やけにまぶしかった。
「西関東大会出場、おめでとう!」
その言葉に、心の奥で何かがやわらかく溶けた。
「……ありがとう。情報、早いね」
「まあね。だけど、せっかく来たのに、なんか暗いじゃん」
その一言に、はっとした。自分では平静を装っていたつもりだったが、隠しきれていなかったのだ。
「え、そう見える?」
「うん。土橋に説教でもされた?」
信二の冗談まじりの言葉に、思わず笑ってしまった。自分でも驚くほど自然に、声が出た。
「あはは、まあ、そんなとこ。演奏、うまくいかなくて……」
口にしてみると、不思議と胸の重さが少しだけ軽くなる気がした。
信二はそれ以上、何も聞かなかった。ただ黙って、私の隣を歩き始めた。その無言の優しさが、今は何よりもありがたかった。
新荒川橋に差し掛かったころ、信二がふと立ち止まって、空を見上げるようにして言った。
「なあ……ちょっと、舞鶴城に寄ってかない?」
ここに来るのは、ずいぶん久しぶりだった。
甲府城公園。通称・舞鶴城公園。
一年生の春、先輩たちに連れられて花見をしたことがある。桜はまるで空からこぼれ落ちた光のように舞い、笑い声が風に溶けていた。あの時は、ただ楽しくて、ただ眩しくて、この場所が、未来への入口みたいに思えた。
でも今は違う。
夕暮れの静けさが、まるで誰かの記憶のように、じんわりと胸に染みていく。
空はすでに群青に染まり、街の明かりが遠くで点滅し始めていた。人影はまばらで、風だけが木々を揺らしていた。遠く、どこかでセミが最後の声を絞っている。それなのに、この静けさが、今日は少しだけ心細い。
「はい、カルピス」
信二が自販機から戻ってきて、無言で私に手渡す。
手に触れた缶の冷たさに、今日がどれほど暑かったかを思い出す。そのことに気づいた自分が、なんだか滑稽で、そして少し哀しかった。
「ありがとう」
缶を握ったまま、私はふと隣を見る。信二がそこにいることが、今はただ、それだけでありがたいと感じた。何度も、私は彼に助けられている。言葉にしなくてもわかってくれる彼の存在が、いつの間にか心の支えになっていた。
二人で並んで、空を見上げた。日が暮れ、夜の輪郭が少しずつ現れ始める。星はまだ見えない。ただ雲だけが、ゆっくりと流れていた。
「なあ、ちょっと話、飛ぶけどさ。いい?」
信二の声に、私は軽くうなずいた。
「なに?」
「千紗ってさ……死者が蘇るって、信じる?」
一瞬、思考が凍る。
死者が……蘇る?
冗談だろうか。ホラー映画の話? それとも、どこかの都市伝説?
空気が変わった気がした。夏の夜だというのに、背中にひやりと風が這う。
私はしばらく言葉を失い、やがて軽く笑ってみせた。
「学園祭の『貞子』の話? そういうのは松田君とか、須賀君に聞いた方が詳しいと思うけど」
冗談めかして言ったつもりだった。でも、信二は笑わなかった。
その目が、真っ直ぐに私を見ていた。まるで、心の奥まで見透かすような眼差しだった。
「いや、違うんだ。そう、いや、そうじゃなくて……。実際、どう思う?」
私は小さく息をつき、言葉を選ぶように答える。
「映画や小説の中なら、そういうのもあると思うけど……現実には、ないよ。たぶん」
「だよな。……うん、そうだよな」
うなずく信二は、どこか腑に落ちていない様子だった。心ここにあらずというか、まだ何かを抱えているように見えた。
再び、沈黙が訪れる。今度の沈黙は、さっきよりも重かった。息をひそめるような夜の気配に、私は耐えきれず口を開いた。
「ねえ……なにかあったの?」
信二は、しばらく何も言わなかった。何かを探すように空を見上げ、そしてそっとため息をついた。
「ごめん……うまく言えない。でも——」
そう言いながら、彼はリュックから一冊のノートを取り出した。無造作に、けれど慎重に、私の手にそれを渡してくる。
「これ……」
私は戸惑いながらも受け取り、静かにページを開く。
何の装飾もない、ただのキャンパスノート。けれど、その中身は……。
日にちが書かれたページには、細かな字がびっしりと並んでいる。日記のようにも、観察記録のようにも見える。
どこかで見覚えのある筆跡。思い出せそうで、思い出せない。
「それさ……光のノート」
信二が小さな声で言った。その言葉に、私の心が大きく揺れた。
光。信二が言う「光」……。それは、工藤君のことだろうか?
胸の奥にざわめきが広がり、私は言葉を失った。
そんな私を見て、信二は静かに何があったのか、教えてくれた。
あの日、甲子園出場が決まった瞬間。
スタンドを揺らすほどの歓声と、絶え間ない拍手。周囲の誰もが涙を浮かべ、喜びに満ちていた。だけどその喧騒の中で、私は妙な息苦しさに襲われていた。まるで酸素の薄い場所に立っているような、深く吸い込んでも肺に届かないような、そんな感覚。
その違和感の始まりは、私が工藤君に向かって手を振った瞬間だった。
本当に嬉しかった。心から、そう思っていた。
試合前から苦しみ、もがいていたことを私は知っていたからこそ、乗り越えてここまで来た姿に、心から拍手を送りたかった。
でも、その一瞬で、何かが音を立てて壊れた。
いつもなら、少し気まずさがあっても、作り笑いのひとつは返してくれていた彼が——その時だけは違った。
工藤君は、私の方を見た。
そして、ほんの僅かに、眉をひそめるような、あからさまな「嫌悪」の表情を浮かべた。視線は、すぐに逸らされた。まるで私の存在など、見なかったことにしたいかのように。
皮肉だった。
それが彼の、はじめて見せた「本音」のように思えた。
だからこそ、その無言の拒絶が、まるで研ぎ澄まされた刃物のように、私の胸に深く突き刺さった。
後から聞いた話では、その場面を目撃した信二が、すぐに工藤君の元へ、注意をしに向かったという。
彼なりに私のことを気遣ってくれたのだろう。でも、そこで起きた出来事は、私の想像のはるか上をいっていた。
信二の口から語られた内容に、私は思わず耳を疑った。
「光がさ……自分は、大気の記憶を持ってるって言ったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、目の前の景色がふっと色を失った気がした。
蝉の声も、風の音も、あんなに近かった信二の声さえ、遠くに感じられる。
「最初は俺も、ふざけてんのかと思ったよ。けど……話してるうちに、おかしなことに気づいたんだ」
信二の目が、夜の闇よりも深く沈んでいた。
彼の中に生じた動揺や、信じたくないという葛藤。それがそのまま言葉の隙間から漏れていた。
「大気の……最後の言葉を、光は知ってた。俺しか知らないはずのことを。あれを知ってるのは……」
そこまで言うと、信二は息を飲んだ。言葉が途切れる。思い出すこと自体が、彼にとって痛みだったのかもしれない。
私はただ、黙っていた。信じられない、というよりも、何を信じていいのか分からなくなった。
信二はゆっくりと、私が抱えているキャンパスノートを指さした。
「これ……ちゃんと読んでみて」
その声は、どこか祈るようだった。
まるで、そこに真実があると信じているかのように。
あるいは、そのノートに、言葉では語りきれない何かが記されていると確信しているかのように。
私は、手元のノートを見下ろす。
表紙もなく、ただ色あせた紙に無数の文字が刻まれているだけのそれが——急に、得体の知れない重さを帯びて感じられた。