目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

二〇一七年七月二十四日

 二〇一七年七月二十四日。

「ちょっと、トイレ行ってくるね」

 小瀬野球場の空は、盛夏の陽射しに灼かれていた。雲ひとつない快晴。焼けたアスファルトの匂いが立ち上り、遠くからは、歓声が幾重にも重なって届いてくる。この日が、ただの一試合ではないことを、空気そのものが告げていた。

 三塁側スタンドの入り口は、試合開始のはるか前から第二高校の応援団と関係者でごった返していた。すでにトイレは長蛇の列。私はその熱気の渦から抜け出すように、駐車場近くのトイレへと向かった。

 人波をかき分けるようにして歩いていると、不意に、男子トイレの前から一人の影が現れる。

 工藤君だ。

 白いユニフォームに包まれた彼は、どこか緊張を滲ませた顔でこちらに気づくと、軽く会釈をした。

「あれ? 工藤君?」

「どうも……」

 その返事は短く、かすれていた。気まずいような、居心地の悪さを隠しきれない様子。たぶん試合前のピリピリした空気のせい。だけど沈黙が落ちると、それもそれで落ち着かなくて、私は口を開いた。

「今日は……いい天気だね」

「……そうですね」

「雲、一つないよね」

「はい、まったく」

 間抜けな会話だと思いながらも、やめられなかった。何か話さなければ、ふたりの間に流れる沈黙に飲まれてしまいそうで。

「ねえ……バーベキュー日和って思わない?」

 自分でも何を言っているのか分からない。でも、言ってしまった。工藤君は一瞬だけ、表情を止めた。眉がわずかに動き、視線が私のほうへと返ってくる。

「先輩……」

「え? なに?」

 少しの沈黙ののち、彼はぽつりと口を開いた。

「……同じこと考えてました」

「えっ、うそでしょ?」

「はい、嘘です(笑)」

 吹き出しそうになった。思わず浮かんだのは、朝練のとき、ふいに見せたあの笑顔。計算ではなく、不意打ちのように訪れる、あの一瞬の表情。あれと同じだった。

「なにそれ(笑)。やっぱり、私のこと舐めてるでしょ?」

「いや、それは先輩もですよ。せっかく球場から離れて集中してたのに……完全に気が削がれました」

「あ……ごめん」

 そうか。あの表情は緊張じゃなくて、集中だったんだ。無神経だったかもしれない。けれど彼は、首を軽く振って言った。

「大丈夫です。……でも、そうですね」

「うん?」

「やっぱり……先輩と話すと、なんだか心が軽くなります」

 その声は、どこか照れくさそうで、けれどまっすぐだった。

 言葉の温度よりも、彼が浮かべたその笑顔のほうが、ずっと温かかった。

 見た瞬間、胸の奥がふいにきゅっとなる。

 どこかで――いや、誰かに――見覚えのあるような表情。

 でも、違う。これは、あれだ。

 想いを伝えようとする、あの瞬間の目。

「そういえば、先輩、あの時の自販機で言おうとしていたことって……」

 言葉の途中で、ふたたび視線が重なる。

 まるで、何かを確かめるように。

 そして、心臓が、ひときわ強く跳ねた。

 え……なに? まさか……。

 思考が霞の中に溶けかけた、そのときだった。

「あの、もしかして工藤さん?」

 背後から声がかかり、振り返ると、ユニフォーム姿の選手が立っていた。胸に『甲斐学院』と書かれたそのユニフォーム。今日の対戦校の選手だ。

「……はい、そうですが」

 工藤君は先ほどとうってかわって、静かに答える。その声には、試合前の緊張感が滲み出ていたが、次の瞬間、少しだけ眉が動いたような気がした。

「そうなんですね。私、甲斐学院の樋口といいます」

 樋口という人は爽やかに自己紹介をしながら、一歩前に出る。その姿は友好を示しているかのようだったが、工藤君は「どうも」と素っ気なく返した。

「私、工藤さんの投球映像をずっと見ていました。綺麗な、本当に綺麗なフォームですよね」

「あ、ありがとう」

 工藤君は少し戸惑いながらも、短く答える。

「本当に。まるで、……。そう。輿水大気さんを思い出します」

 その瞬間、空気が一瞬で凍りついた。周囲の微かな雑音さえも消えたように感じる。

「そうなんだ」

 工藤君の声は低く、重みを帯びていた。

「はい、自分は輿水さんを尊敬していて。だから、あなたのように真似されるのは嫌なんです」

 樋口君の言葉は鮮明に響いた。その視線は工藤君の目を真っ直ぐに捉え、離さない。

「真似?」

「はい、工藤さんの投球フォーム、輿水さんの丸パクリじゃないですか。そっくりです」

 その瞬間、工藤君の表情が硬直する。

「そうかな。彼を映像で見たことあるけど、そもそも右左で違うと思うけど」

「いや、そっくりなんです」

 工藤君は短く息を吐き、冷静さを保とうと努めながら言葉を紡ぐ。

「あ、そう。確かに彼の投球を参考にはしたよ。何せ去年、この山梨県の中でも、防御率のいい投手だったし。でも、球筋も違うし、使う球種も違う。君が輿水君のことをどう思うかは知らないけど、ちょっかいは出さないでくれないかな?」

 その言葉には、明確な線引きがあった。

 でも、そっか。工藤君、大気君を参考にしていたのか。だから、あんなに似ていたのか。

 しかし樋口君は、引き下がる気配を見せなかった。

「いや、私は本当に輿水さんのことを尊敬しているからこそ、嫌なんです。何せ、命を助けてもらっているので」

「ん……なんて?」

 工藤君の表情が一瞬揺れた。その瞬間、空気が一層重くなるのを感じた。

「輿水さんって、去年、事故にあったじゃないですか。その時、中学生を庇って亡くなったんです。実は、庇ってもらったのは、私でして。だからこそ、輿水さんの分も頑張って、野球で活躍しないと。自分、輿水さんに託されているので」

 その言葉が耳に届いた瞬間、私の胸が詰まるような感覚に襲われた。あの事故の日、あの衝撃と混乱、そして胸を締め付けるような痛みが脳裏に甦る。

 視界の端で、工藤君が私を気遣うように一瞥をくれる。そして、すぐに、樋口君に向き直った。

「そうなんだ。輿水君のことは詳しくは知らないけど、俺たちも彼の想いを背負っている。だからこそ、ベストを尽くすだけさ」

 その声は落ち着いていたが、どこか鋭く、殺気を帯びていた。

 だがその時、トイレから樋口君の先輩らしき選手が出てきたことで、会話はそこで中断された。

 樋口君は、一礼して去り、工藤君も無言でその場を離れた。

 振り返りもせず、静かに歩いていく背中を、私はただ目で追うことしかできなかった。

 ただ、胸の奥で、ざわざわと、何かが渦を巻いていた。

 それは言葉にすればするほど、核心から遠ざかってしまうような感情だった。

 やっぱり、彼は別人だ。別人だった。

 そう気づいたとき、少しだけ肩の力が抜けた。安堵にも似た吐息が、喉の奥からふと漏れた。でも、それは決して喜びとは言えなかった。

 何を期待していたのだろう。

 もう終わったはずの想いに、どこかで似た面影を重ねてしまっていた。そんな自分に、胸の内側がじんわりと熱を持つ。

 今、私には大切な人がいる。手をつないで、同じ未来を見ようとしている人が。

 それなのに――ほんの一瞬でも、心が揺れてしまった。

 別人でよかった。そう思ったはずなのに、その裏側で、かすかな喪失感が顔を覗かせる。

 どこにも置き場のない想いが、静かに、ゆっくりと、胸の奥を満たしていた。





(落ち着いてきたな)

 今日の光は、乱れていた。

 ブルペンでのボールは、まだ荒かった。コントロールは定まらず、胸の奥のざわつきが、腕のしなりをわずかに狂わせているようだった。

 だが、それでも――その球には、力が宿っていた。雑味のない、純粋な意志がこもっていた。

 問題は、それが“暴れる”時だ。

 こういう時ほど、試合が始まればより崩れる。信二はそう予感していたが、マウンドに立つ光の背中は、数球のうちに静けさを取り戻していた。

「いいピッチャーだな」

 打席に立った男が言った。

 三番、甲斐学院のキャプテン、古橋。

 一年の頃から名門の外野を守り、今年の春の選抜では打率五割を超えた。走ってよし、守ってよし、打っても一級。プロもマークする男が、初回から立ちはだかる。

「ああ。甲子園、諦める気になった?」

「はは、ふざけんなよ」

 言葉を交わしたのは、わずか数秒。

 審判の「プレイ!」がその余白を切り裂き、世界が再び、球場へと収束していく。

 ツーアウト、ランナーなし。

 まだ序盤。焦る場面ではない。

 古橋は当てるのが巧いが、一発は少ない。冷静に攻めれば、十分抑えられる。

 けれど、今日は決勝だ。勝負の場では、些細な一打が試合全体の空気を変える。

 信二はインコース低めを要求した。古橋が嫌がるゾーン。

 光が静かに頷く。

 美しいフォーム――流れるようなモーションの中に、集中としなやかな意志が宿る。

 足が地を蹴り、軸が回り、指先に力が集まる。

 その一球は、まるで意思を持ったかのように、狙い通りの軌道を描いた。

(いいコース……)

 その時だった。

 視線の向こう、バッターの気配が変わった。

 古橋の顔は見えない。だが、そこに確かに、笑った気配があった。ほんのわずか、獲物を仕留める前の、猛禽類のような静かな嗤い。

 ――しまった。

 次の瞬間だった。

 音が、乾いた風のようにスタンドを駆け上がる。

 光の渾身のストレートが、真っすぐにライトスタンドへと吸い込まれていった。





「苦しいね、今日は」

 前からこぼれた声は、暑さへの愚痴ではなかった。すぐに分かった。

 照りつける太陽よりも、瑠璃が指したのは、この試合のことだ。

 五回裏、スコアは〇対三。第二甲府は追う立場だった。

 初回のホームラン。そして三回、四回と、じわじわと点差は広がった。

 一方、こちらの打線は湿ったまま。ランナーを三塁にすら進めない。

 試合のリズムは完全に、甲斐学院に握られていた。

「うん。本当に、苦しいね」

 私もそう答えながら、視線をマウンドへ向ける。

 だが、それだけではなかった。

 スコアや流れといった表面的なことを超えて、胸の奥には別の苦しさがじわりと広がっていた。

 マウンド上の工藤君。

 その投球フォームはいつも通り美しく、流れるよう。けれど今日は、なにかが違う。

 まるで、演奏者が譜面を完璧に読みながらも、音楽が心に届かないような。

 リズムがずれている。音が遠い。心が、ここにないような。

 信二が全身でリードし、支えているのは伝わる。でもそれ以上に、工藤君自身の中に、何かが渦巻いているように見えた。

「おら! 第二高校! しまってこーぜー!」

 その時、スタンドの空気を裂くように、クラスメイトの松田君の大声が響いた。

 わっと、あちこちで小さな笑いがこぼれる。その声に、誰もが少しだけ肩の力を抜いた。

 そうだ、私たちは応援しているのだ。だからこそ、暗くなってはいけない。選手たちの気持ちが前に進んでいくように、私たちの心も前を向かなければならない。

「チェンジだよ!」

 前方の瑞希が振り返り、力強く指示を飛ばす。

 その声に合わせて、部員たちが一斉に楽器に手を伸ばす。

 汗を拭い、楽譜を見つめ、唇にマウスピースを当てる。

 次は六回。いや、まだ六回だ。

 試合は終わっていない。

 私たちもまた、ここで戦っている。ベンチにいなくても、グラウンドに立たなくても。

 この音を、この声を、気持ちを、選手たちに、ちゃんと届けなくては。





「よっしゃ、まだまだ、まだいけるぞ!」

「へいへいへいへい! いいねいいね! おもしろい試合!」

 外野の守備から戻ってきたりんとはじめが大声で叫んだ。その声は、まるでチーム全体にエネルギーを注ぎ込むようだった。

「おっけい、おっけい、まだ行けるぞ!」

 そして、何よりも、誰よりも東が周りを盛り上げる。

 今日は記録員を担当している東だが、彼の存在感はまるで選手そのもののようだった。エースの役割を、自分なりに考え、体現し続けてくれる。その強さに、やはりこの夏のエースは東だと強く感じた。

「三浦、どう思う?」

 監督が、険しい表情で話しかけてきて、信二は少し考え込む。

「そうですね。結構苦しいですが、正直あの打線を三点で抑えられているのは上出来ですよ」

「甲斐学院の打線も、調子のムラがありそうだな。特にキーマンを抑えたら、あとは何とかなる」

 監督はそのまま、うーん、と黙り込んでしまった。そして、プロテクターを外しながら再び考える。

 確かに上出来ではあるが、このままでは厳しい。いつ、光を攻略されるか分からないし、そろそろ光の弱点にも気づかれるはず。だからこそ、ここで何かを打開しなければ、試合の流れを変えるのは難しい。

「カッキーン!」

「おらぁあ!」

 金属音と共に、叫び声が響いた。りんがセンター返しをした音だ。心の中で、思わず「ヨシ!」と思う。

 ベンチとスタンドが一斉に盛り上がる。

 プロテクターを全て外し終わると、はじめが次のバッターとして打席に向かう。

 監督の指示のもと、はじめは確実に送りバントを決める。

 ワンアウト、ランナー二塁。次のバッターは三年の戸堂だ。

 三塁スタンドからは、第二高校のチャンステーマが流れ出す。

 信二はネクストバッターズサークルに入り、戸堂の打席をじっと見守る。

 相手投手は本格派というより、むしろ制球力に優れたタイプだ。ストレートとスライダーで組み立ててきて、光と似ているタイプ。

 ただ、あのウイニングショット。そう、チェンジアップ。あれが本当に厄介だ。スピードがストレートより遅くなるだけでなく、かなり落ちる軌道を描く。

 「ゴンっ」

 戸堂の打球はサードゴロになったが、予め走り出していたため、その間にランナーは三塁へ進塁する。

 次の打席は、信二。つまり俺。

 まだ、夏は終わらせたくない。胸の奥から湧き上がる熱い気持ちが、信二の体を突き動かす。





「よっしゃ! ごら!!!」

 松田君の叫びが、球場の空気を震わせる。まるで山のこだまのように、スタンドの隅々まで響き渡った。

 その声とほとんど同時に、私たちはヒットの曲を奏ではじめる。吹き慣れたメロディが、今はまるで歓喜そのもののように響く。

 信二の放ったタイムリーツーベースが、沈んでいた空気を一変させた。スコアボードに「1」の数字が灯る。六回表、ついに一点。三対一。

 吹き終えた瞬間、私は思わず「やったー!」と声を漏らしてしまった。隣の瑠璃と目が合い、二人で顔をほころばせる。

 けれどその喜びは、瑞希の鋭い声ですぐに現実に引き戻された。

「はい、集中! もう一回、チャンステーマ!」

 そうだ、試合はまだ続いている。喜びに浸っている時間なんてない。私は急いでマウスピースを唇に当て直し、また演奏の渦へと身を投じる。

 打席には六組の上野君。彼はこの暑さの中で、何度もスイングを繰り返し、粘って、粘って、粘った。

 そして九球目、彼の左足をかすめたボールが、思わぬ形でチャンスを広げる。

 ツーアウト、一塁と三塁。

 次にバッターボックスへ向かうのは、工藤君だった。

 遠くからでも分かる。彼の背中には、どこか張り詰めたものがあった。

 初球、迷いのないフルスイング。しかし、それは明らかに空回りだった。タイミングが合っていない。体全体が力んでいて、フォームが崩れている。

 三塁にいる信二が、何かを必死に叫んでいる。声は届かないだろうに、それでも叫ばずにはいられないような、そんな切実な様子だった。

 私、工藤君のこと、ちゃんと知らないんだな。

 思わず、そんな考えが胸をよぎった。

 同じ校舎で、朝練で、同じ時間を過ごしているはずなのに。応援してきたのに。

 けれど、彼が本当に何を思っているのか、何に悩み、何と闘っているのか、私は何も知らない。

 あの時、トイレで見た横顔。

 どこか陰を抱えていた。

 暑さでも、緊張でもない、もっと別の、言葉にできない重たいものを。

 あの爽やかな笑顔だって、きっとつくりものだ。無理に明るく振る舞って、私たちに距離を置かせようとしている。

 これ以上、近づくな。

 そんなふうに、自分で壁を築いて。

 そのくせに、どうしていつも寂しそうな表情をして、私に接してくるのだろう?

 私はまだ、工藤君のことを全然知らない。

 それなのに、こんなにも応援しているのは、どうしてだろう?

 ただ、もどかしい気持ちが胸に広がるばかりだった。





「おい、光。……聞いてるか?」

 静まり返ったマウンドに、信二の低い声が落ちる。

 八回裏、試合はついに終盤へと差しかかっていた。

 先ほどの回、光は三遊間を割るかと思われた鋭い打球を放った。

 だが、相手ショートが飛びつき、ギリギリの体勢で捕球する。

 しかし、その送球は乱れ、光は一塁へと滑り込むようにしてセーフ。

 その後も打線はつながり、ついに逆転。

 球場を包むのは歓声と、期待のざわめき。それでも、マウンドに立つ光の表情に変化はない。

「ええ。大丈夫です」

 試合中、光の返答は、相変わらず素っ気ない。感情の起伏を感じさせない声音が、むしろ信頼を生んでいた。

「おっけい。……じゃあみんな、このピンチ抑えて終わらせよう。大気のためにも」

「おう!」

 円陣は解かれ、選手たちは散っていく。

 信二は、ボールをそっと光に手渡した。

「残り、全力で行こう。……本当に、大丈夫か?」

 その言葉には、気遣いと不安が入り混じっていた。

 酷暑と連投。心配するなという方が無理だ。

 光は、少し遠くの空を見ていた。

 見えない何かを見据えるように。けれどその目は、確かにしっかりと地に根を張っていた。

「……ええ。いけます。何か今、」

「どうした? 不調か?」

 信二が眉を寄せると、光がふっと吹き出した。まるで空気が緩むように。

「おい、なんで笑う」

「いや、そういう真面目なところが、キャプテンらしいなって(笑)」

 軽口を叩きながらも、光の目は冴えている。冗談と本音の境目が、曖昧なまま揺れている。

「……でも、今めちゃくちゃ楽しいっす。このまま、死ぬまで投げていたいくらい」

「……ああ、そうかもな」

 それは冗談のようでいて、どこか本心のようでもあった。

 楽しい。そう言える余裕があるなら、まだ大丈夫だ。

 信二はそう思い直し、この後のリードを考えようとして、背を向ける。

「信二、ありがとう」

 不意打ちのように投げかけられた言葉が、背中に刺さる。

 反射的に振り返ると、光がいたずらっぽく笑っていた。

「冗談ですよ」

 軽く肩をすくめながら、それでもどこか、凍てついた何かが溶けたような笑みだった。

 信二は苦笑いを返す。けれど、心の奥には一瞬、理由もわからぬ寒気が走った。

 審判に一礼し、再びゲームは動き出す。

 ツーアウト、ランナー二塁。同点の走者だ。

 バッターボックスには甲斐学院の一年、セカンドの樋口。

 実力者だが、今日は快音が出ていない。それでも代打を送られず、こうして送り出されたのは、彼に対する信頼の証なのだろう。

 中学時代、精神的な弱さが目立っていた彼が、今やチームの一員として重責を背負っている。

 ふと、そんな成長が嬉しく思えてしまう自分がいた。

 光もそれを感じ取ったのか。その表情に、静かな闘志が灯る。

 初球。

「ボール!」

 ストレートは僅かに外れたが、その球には、確かな重みと鋭さがあった。

 この日、最も良い球だったかもしれない。

 光の顔には、吹っ切れたような清々しさがあった。

 すべてを受け入れて、すべてを超えていく者の表情だった。





「よーし。よーし。いけるぞ!!」

 松田君の声が、球場全体を突き抜けた。だが今は、あの豪快な声すら、しんとした空気の中に吸い込まれるように感じられた。

 九回裏、ツーアウト。ランナーは、一塁。甲斐学院の主将が打席に立っている。初回、スタンドへ運んだあの一撃を、誰もが覚えている。

「ストライク!」

 審判の甲高い声が響き、どこからともなく拍手が湧いた。第二甲府の野球が、ここにきて球場全体の心をつかんだのだ。だが、そのことに最も無関心そうなのは、他でもない、打席に立つ男だった。

 バットを握るその姿からは、野心でも苛立ちでもなく、研ぎ澄まされた集中だけがにじんでいた。すべての雑音を消し去り、ただボールとの対話に身を委ねている。こちらまで息を呑んだ。

 対する工藤君の姿は、既に「球児」の枠を超えていた。むしろ、どこかの公園で夢中に投げ合っている少年のような、澄みきった表情。あの八回、樋口君との勝負で何かが解けたのだろう。身体が軽やかに躍動し、投球に「楽しさ」という、野球の原点が戻ってきていた。

「ファール!」

 弾かれた打球がネットを揺らし、観客のどよめきが一瞬だけ場を満たす。その様子を見届けて、工藤君と信二が互いに頷く。

 この一球一球が、ただの勝負ではないことを、私は知っている。ここには、日々の積み重ねも、仲間の祈りも、亡き大気君の意志すらも宿っている。

「ボール!」

 それでも、相手のバッターは見逃す。微動だにせず、ただ己を信じて。きっと彼も同じなのだろう。この場所、この瞬間が、自分のすべてを懸けるにふさわしいと、感じているに違いない。

「ファール!」

 打球が鋭く跳ね返る。だがもう、終わりが近づいていた。

 工藤君が、”最後”のモーションに入る。魂を宿した一球が、投げられた。

 空気が止まる。時間が止まる。

 工藤君の球は、美しかった。まるで夜空を裂く流星のように、静かに、だが確実に、内角低めへと吸い込まれていった。

「ストライクアウト!」

 バットは動かなかった。

 沈黙が、爆発する。地鳴りのような歓声が、球場を揺らした。ナインが雪崩のようにマウンドへ駆け寄る。信二は、抱きしめるように工藤君の胸へ飛び込んだ。

 私たちも、楽器を抱えたまま跳ねる。瑠璃の手が私の手をつかみ、雪ちゃんが泣きながら叫んでいた。

 第二甲府高校、甲子園出場。

 夢が、現実になった瞬間だった。





「おい、整列をしっかりしろ!」

 信二は、興奮を抑えながらも、しっかりとキャプテンとして指示を出す。

 勝利の余韻が漂う中、全員が素早く整列し、試合を終わらせる準備を整えていく。

「双方、礼!」

 サイレンが鳴り響き、試合が終了した。

 その直後、目の前に立つ甲斐学院の古橋と目が合った。

「……おめでとう」

「……ありがとう」

 握手を交わし、そのまま自然と古橋と抱擁する。彼の表情には、どこか寂しさが感じられるが、満足した様子も浮かんでいた。

「優勝しろよ」

「あぁ、頑張るわ」

 一瞬冗談かと思ったが、古橋のトーンは本気だった。

 こうしてまた、人の想いを背負っていくのだ。

 甲子園の試合は、もう自分たちだけのものではない。山梨県勢全員の想いを背負って戦っていく。誇らしさと共に、その重さも感じる。年々引き継がれてきた優勝校の重みを、その時初めて実感した。

 校歌斉唱後、選手たちは三塁スタンドに向かい、仲間たちと共に優勝を分かち合う。

校歌斉唱が終わると、選手たちはゆっくりと三塁スタンドに歩を進めた。晴れ渡った空の下、勝利の余韻が陽炎のように揺れていた。仲間と、観客と、そして応援してくれたすべての人と、この瞬間を分かち合うために。

「うぉーーーい!」

 相変わらず、クラスメイトの松田の喉は限界を知らなかった。

「うぇーーい!」

 いたずらコンビの須賀の声も負けじと響き渡り、スタンドを笑いで包み込む。

 だが、その野郎連中の笑顔の奥に、ふと揺れるひときわ細い影が目に入った。千紗だった。吹奏楽部のポロシャツの上に、汗と涙が混じった笑顔が咲いていた。その姿を見た瞬間、胸の奥から熱いものがせり上がってきた。

(あの応援歌、ちゃんと届いてたよ)

 手を振った。感謝のすべてを込めて。

 勝ったんだ。ようやく、ここまで来た。甲子園が、夢じゃない場所になったんだ。

 去年の冬、誰にも言えずにこらえた夜の涙が、一つひとつ報われていく。

 そして——大気。お前に、やっと胸を張れる。

「おい! あそこにキャプテンのご婦人が!」

「なに!! りん、場所を教えろ!」

 りんとはじめが、まるで子供のように千紗に向かって手を振る。その無邪気さに、自然と笑みがこぼれた。全員が、自分の居場所を確かめるように、誰かを探していた。

「おい、光も手を振れよ」

 りんが肩を叩くように声をかけた。その一言に、千紗はぱっと笑顔を広げ、明るく光に手を振った。

 だが——その時だった。

 光は彼女を一瞥しただけで、「いいや、ごめん」と呟き、ベンチ裏へと音もなく姿を消した。

 風が止んだように感じた。

 ほんの一瞬だったのに、全身の温度が一気に奪われたような錯覚に陥った。

 千紗の笑顔が、まるでガラスのように崩れ落ちた。瞳の奥に、あの時とまったく同じ陰りが差していた。忘れたかった。あの日、あの病室で見たあの顔を。

 心のどこかでずっと引っかかっていた違和感が、鋭く喉を刺してくる。

 俺はその場を離れ、監督に「光が心配なので」と一言だけ伝えた。そして、何かに突き動かされるように、ベンチ裏へと走り出していた。





「おい、光……待てよ」

 呼び止めた声に、彼は振り返ることなく、足を止めた。背中越しに投げかけられた言葉は、氷のように冷たかった。

「何ですか」

 それだけで、信二の胸はわずかに軋んだ。ああ、これはもう、人に話が通じない時の声だ。分かっているのに、今はどうしても引けなかった。

「せっかく、みんなが応援してくれたんだ。ちゃんと……ちゃんと礼くらい言えよ!」

 声が大きくなった。感情が先に口を突いて出た。抑えようとしていた何かが、とうとう溢れ出した。

「言いましたよ。普通に」

 光の返答はあまりに簡素で、そこには熱も響きもなかった。さっきまで歓喜の渦に包まれていたグラウンドが、急に遠く霞んでゆく。

「……」

 俺は何も感じていないのか? それとも感じない振りをしているのか?

 ずっと疑問だった。彼がこのチームに溶け込もうとしながらも、どこかで距離を置いていた原因。転校してきたのがただの家庭の事情ではなく、実際には、野球部の先輩からのいじめ。そして、自殺未遂。

 高橋監督から聞いたその事実が、信二の中でずっと棘のように刺さっていた。だからこそ、これまでは目をつむってきた。深く踏み込まないことが優しさだと思っていた。

 だが、今日だけは——我慢できなかった。

「……してないだろうが。ちゃんとやれよ、みんなの前で」

「……しました。アンダーシャツも汗びっしょりですし、早く着替えたいんです」

 その一言が、喉の奥に引っかかった。怒りというよりも、悲しみに近い何かが込み上げる。

「おい……そんな態度で、許されると思ってんのか?」

「失礼だったつもりはないですよ。形式的な礼はしました」

 噛み合わない。言葉は交わしているのに、心がすれ違う音だけが響いていく。

「千紗が……手を振っただろ! それに、返さなかったじゃないか!」

 沈黙。光の動きが止まる。

 やがて、彼はゆっくりと顔を上げ、静かに言った。

「それって……怒ってる理由は、千紗先輩に手を振らなかったから、ですよね」

 その言葉の奥に、何かを探るような光があった。問いかけというより、挑発でもなく、ただ、静かな確認。

「お前……何を言ってるんだよ……?」

 信二の声がかすれた。光の目は冷ややかで、けれどどこかで何かを抑えていた。言葉を飲み込む。その仕草の向こうに、爆発寸前の沈黙が潜んでいる。

 どれほどの時間が過ぎたのか。

 ようやく、光がひとつ、深い息を吐いた。胸の奥の古傷から、煙のように言葉が立ちのぼった。

「……先輩」

「なんだよ」

 その瞬間の光は、いつもの彼ではなかった。声にも、瞳にも、皮膚の奥から滲み出るような誠実さがあった。

「お互いさ……もう、そろそろ本音で話そうぜ。なあ、信二」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?