二〇一七年七月二十三日。
「ゲームセット!」
「うぉ、第二高校がやりやがった!」
球場が、今日一番の歓声に包まれる。
スコアボードには、一対〇の数字。第二甲府高校が東山大付属甲府高校を破った。
二年連続の決勝進出。正直、今年の夏に第二甲府がここまで残るとは、誰も予想していなかった。いや、俺自身もそうだ。
大気が抜けた時点で、せめてベスト8にでも進めれば万々歳だと思っていた。
だが、現実は甘くない。さらに追い打ちをかけるように、東が怪我で戦線を離脱した瞬間、チーム全体が沈んだ。本当に絶望しかなかった。
でも、そんな暗い穴を、予想もしなかった形で埋めてくれたのが、工藤光だった。
五月、彼は親の転勤で山梨に引っ越してきた。
初めて見た時の印象は、「なんだ、こいつはモデルか?」だった。
長身で整った顔立ち、見るからに都会育ちのイケメンだ。
「ポジションは、ピッチャーです!」
まさか、投手?
俺たちは半信半疑で、光とのキャッチボールに臨んだ。
ボールを受けても最初は、「まあまあ普通の投手だろう」と思った。だが、いざ座って受けてみると、驚愕した。いや、鳥肌が立った。
球速は速くない。ボールのキレも、飛び抜けているわけではない。
しかしその投球フォームが、あの大気にそっくりだったのだ。
「おい、ちょっと待て……」
声を漏らしたのは、俺だけじゃない。高橋監督も光のフォームを見た瞬間、息を呑んだ。
(何者だ、こいつ?)
ただそのことが、頭の大半を占めていた。
それから光は、驚異的な速度で成長していった。
まるで、新しいことを学んでいるのではなく、何かを思い出しているかのように。彼は、誰よりも早く学校に来て、練習を始め、地道なトレーニングを着実にこなしていった。
ただがむしゃらに身体を酷使する「筋肉バカ」ではない。最新の野球理論を駆使し、必要な技術を一つずつ吸収していく姿は、大気とはまた違ったタイプの選手だった。
だが、それだけに不安もあった。
全体的に見れば、彼の努力は正直、オーバーワーク気味だった。俺も監督も、その点について何度か注意をした。だが、光はどこまでも真剣だった。
「大丈夫です。これが今の俺に必要なことだとわかっています」
そう言い切る目には、揺るぎない決意が宿っていた。
サプリメントやストレッチも含めた自己管理の徹底ぶりは申し分なく、最終的に俺たちは彼を信じ、見守ることにした。
そんな彼の姿を見て、チームメイトたちも少しずつ変わっていった。周囲の選手たちも次第に光を「仲間」として認め、信頼を寄せるようになった。
しかし、どうだろう。今、このチームの実質的なエースは光だ。東が抜けた後、その穴を埋めるどころか、光は新たな柱としての役割を果たしている。
そのスタイルは、大気とは違う。大気のように球威でねじ伏せるタイプではないが、光には「安定感」という強みがある。コーナーを丁寧に突き、確実にアウトを取る。その堅実さが、チームに安心感を与えている。
さらに、彼は配球の意図を正確に汲み取り、こちらのリードに応えてくれる。キャッチャーとして、これほどリードしがいのある投手はなかなかいない。
そして、光が最も輝くのは、ピンチの場面だ。ランナーが得点圏に進むと、彼の集中力は一段と研ぎ澄まされる。まるでギアを一段階上げたような気迫を感じる。ホームベースの後ろから見ていても、その空気の変化は明らかだ。
今日の試合でも、光はその真価を発揮した。七本のヒットを打たれながらも、失点はゼロ。抑えるべき場面ではきっちりと抑え、力を抜いてもいい場面では抜く。そのメリハリの効いた投球は、先発投手として非常に理想的だった。
相手からすれば、「打てているのに点が入らない」という、ストレスの溜まる状況だっただろう。
キャッチボールを終え、ベンチ裏に戻る光に向かって、「アイシングしとけよ」と声を掛ける。
光は振り返り、「わかりました」と短く答えると、手早く道具を片付け始めた。
その姿を見届けた俺も、自分の片付けに取り掛かる。その横で、監督がポツリとつぶやいた。
「いよいよだな」
その言葉に思わず視線がベンチの奥に向かう。
掲げられた大気のユニフォームが目に飛び込んできた。
今、この瞬間、まるでそこから大気が俺たちを見ているような、どこか近くにいるような気がした。
そうだ。とうとう決勝だ。
去年、俺たちが取りこぼしたものを取り返すときが来た。そして何より、天国にいる大気のために。
「お!」
明日の試合に備え、いつもより早く練習を終えた。そのためか、いつも以上に暑さが堪える。だが、空は少しずつその色を変え、夕焼けの兆しが見え始めている。今の時間、校門を出る頃には、陽射しが柔らかく、肩に落ちる影は少しずつ長くなっていた。
主力メンバーが集まり、足元は汗ばむ熱さを感じながらも、少しの涼を求めて歩みを進める。その先、校門の前には千紗が静かに立っていた。彼女の姿が、ひときわ柔らかく浮かび上がるように見えた。
「キャプテン~。奥方がお待ちしていますぞ!」
はじめの声が、空気を裂いて響く。どこか調子の良い、軽やかな響きに思わず顔がしかめられる。
「うっせえ」
軽く睨みながらも、心の中で少し笑いをこらえる。はじめやりんたちの無邪気な態度に、なんとなく緊張がほぐれていくのを感じた。みんな、決勝を明日に控えたというのに、まるで気楽なことを言い合っている。
千紗とは最後のデートから、なかなか会えなかった。
夏休みに入って、それぞれの忙しさに追われ、しばしの別れが続いた。それでも、こうして突如として彼女と再会できることが、心に温かいものをもたらす。千紗も、そんな中で自分に時間を割いてくれたのだろう。
「ほら、お前ら先に帰れよ。俺はゆっくり帰るから」
「キャプテン、明日がありますから、ほどほどにねー!」
はじめとりんたちは、嬉しそうに笑いながら、何とも下品な笑い声をあげつつ千紗に軽く会釈をすると、校門を出て行く。千紗はその姿を、見えなくなるまで見送っていた。彼女の目に映るのは、陽が沈む直前の、少しぼんやりとした景色だ。
「悪い、うるさい奴らで」
「ううん、全然。急に押しかけちゃってごめんね。それにしても、決勝進出おめでとう!」
その一言に、思わず頬が緩む。これ以上の祝福はないような気がした。
「うん、ありがとう」
自分でも知らないうちに、顔が自然にほころんでいた。千紗との会話の中で、試合の疲れも、暑さも、忘れ去られていく。二人並んで歩きながら、校門を抜け、新荒川橋へと向かう。静かな歩調の中、彼女の隣にいることが、何よりも安らかな気持ちを与えてくれる。
橋を渡る時、空はその色を深めていく。夕焼けに染まる空、風の涼しさ、そして静かな川の流れ。すべてがまるで時が止まったように感じられる。自転車を押して歩く二人の影が、川面に長く映り込んでいく。
「今日の試合、本当にハラハラドキドキだったね」
「うん、緊張感がすごかった。でも、あの時は、集中して頑張れた」
「本当にね。みんなが粘り強くヒットを繋げていたし」
実際、今年のチームは打撃が弱く、今日は四安打しか出なかった。その中で、俺の内野安打も貴重な一打だった。久しぶりにヘッドスライディングを決めて、腹が痛かったのを思い出す。
「けど、正直ダサいヒットだったよな」
「そんなことないよ! あれは本当にかっこよかった!」
千紗の言葉に、心が温かくなった。彼女の笑顔が、そのまま自分を包み込んでくれるような気がした。そんな風に褒められることが、何よりも嬉しかった。
「ありがとう。それも、千紗たちが応援してくれたおかげだよ」
「ははっ、どうもどうも(笑)。信二の応援歌、かわいいもんね」
千沙がクスクスと楽しげに笑う。
俺の応援歌は『セーラームーン』のテーマ曲。月に代わって相手のエースをお仕置きとかなんとか。うちのキャッチャーの伝統的な応援歌らしいが、正直、どんな伝統だよと思う。
「いやいや、俺が選んだわけじゃないんだよ? 他のみんなみたいに自由に選べたらいいのに。」
僕の言葉に、千紗は明るく答える。
「でも、素敵だと思うよ? それに変わった曲を選ぶ人だっているじゃん。ほら、工藤君なんて、『半沢直樹』でしょ? 今更って感じだけど、あれ、めっちゃ面白い(笑)」
その言葉に、つい笑いがこぼれた。千紗が笑うと、その笑顔が目の前で弾けるように広がって、俺もつられて笑ってしまう。でもその一瞬、彼女の表情の中に、はじめやりんたちと別れるときの、少し寂しそうな顔が浮かんで、ふっと言葉が止まる。
「信二、どうしたの?」
彼女の声に引き戻され、意識を元に戻す。自分でも驚くほど、素っ気ない返事が口から出てしまった。
「いや……なんでもない。あいつ、ちょっと、変わってるからさ」
あまりに不自然な返事に、自分で嫌になった。その瞬間、千紗の目がわずかに曇り、眉が少し下がるのがわかる。
「……そうなんだ」
その一言だけで、すべてが微妙に重くなる。彼女の言葉は柔らかく響いて、でもその裏に、何か掴みきれない空気を感じてしまう。
その後、帰り道は当たり障りのない話が続いた。お互いに思いついたことを口にするだけで、言葉の意味はあまり深くないような気がした。
スマホをちらっと見た時、時刻はすでに十八時を回っていた。
遠くから聞こえてくる蝉の声が、いつもよりやけに大きく感じた。