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二〇一七年七月二十二日

 二〇一七年七月二十二日。

 第四楽章。

 きらびやかな旋律が、会議室いっぱいに広がっていく。喜びに満ちた和音。夏の光をそのまま音にしたような、まぶしさ。

 コンクール前の猛特訓が続く朱雀会館。その日は、夏休みの初日だった。

 しかし、私は、音楽とはまるで関係のない誰かの姿ばかりを思い浮かべていた。

 工藤光。

 あの日以来、彼は朝練に姿を見せていない。けれど、ここまでの試合では、まるで主役のような存在感を放っていた。

 三回戦に進出した次の日。昼休みの一階の渡り廊下、自販機の前。

 冷たい缶コーヒーを取り出した瞬間、不意に、彼と目が合った。

「……あ」

「……あ、どうも」

 気まずいような、でもどこか懐かしいような間のあと、どちらともなく笑った。

「久しぶりだね」

「ですね。なんか、だいぶ」

 彼の笑顔はいつも通り爽やかで、けれど、どこかに影があった。その違和感に、私は気づいてしまう。

「元気そうに見えるけど、調子はどう?」

「まあ、ぼちぼち。試合も続いてるし……緊張はしてますけど」

「そうなんだ。そういえば、最近、朝も見かけないけど?」

「え……ああ、はい。すみません、ちょっと……」

 言いよどむ彼の声。

 私の中に、あのフォームが再生される。あのマウンドでの、研ぎ澄まされた立ち姿。帽子の拾い方、呼吸のリズム、投げ終わった後の佇まい。それはやはり、誰かと重なって見えた。

「……ねえ、」

 声をかけかけたその時だった

「おーい、光ーっ! なにサボってんの!」

 南校舎のほうから、見覚えのあるふたりが駆けてくる。

 学園祭で会った、二年生で野球部のりん君とはじめ君。二人とも坊主頭を光らせながら、あいかわらず元気いっぱいだ。

「いてっ! なにすんだよ!」

「うるせえ。昼休み、ミーティングだっつーの。こっちは迎えにきてやってんだからな」

「わかったよ、今行くって」

「おい、りん、千紗さんいるって……」

「……お、千紗さん。こんにちはー。あー、ごめんなさい、ちょっと急ぎで……失礼しまーす!」

 勢いそのまま、彼らは工藤君を挟むようにして、半ば引きずるように去っていく。

 そのとき、工藤君が一度だけ振り返った。

 何か言いかけたように見えたけれど、唇は動かず、そのまま姿は校舎の陰に消えていった。

 残された私は、まだ指先に缶コーヒーの冷たさを感じながら、言いそびれた言葉を、口の中で転がしていた。

「やめ!」

 顧問・土橋の短い一言が、空気を切り裂く。その瞬間、朱雀会館に響いていた音が、ピタリと止んだ。

 しまった。何も考えてなかった。

 木管も金管も、指を止めたまま凍りつく。私の心臓は、演奏していたときよりも大きく鳴り出す。

 土橋は腕を組み、無言のまま私たち全体を見渡した。その視線が一人ひとりに触れるたび、教室内の空気がすうっと澄んでいく。椅子に座る背中が、自然と伸びる。

「……低音パート。フォルテのところは、もっと音を出していい。だが、割れてはいけない。音を響かせて、遠くに飛ばす意識を持つこと」

 落ち着いた声。だが、鋭さは隠されていない。楽譜以上に、空間全体の響きを読むような指導だった。

「クラリネットとフルート。ここ、ブレスのタイミングをパートで確認できてるか? 音が切れないように、パート練で見直しておけ」

「それから、トロンボーン。セカンドとサード、ピッチが甘い。あとでチューニング確認してから帰るように」

 土橋は、厳格な指導で知られている。

 かつては県大会を勝ち抜き、上の大会の常連だった名将だ。だが近年は、設備も指導者も豊富な私立高校に押され、県大会すら思うように勝ち上がれない。

 それでも、彼の目は濁っていない。いつだって前を、もっと高みを見ている。

「……そして、最後に。ペット」

 その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。私の名前が呼ばれる予感がした。いや、確信していた。

「――特に、橘」

 やはり。

「オーディションのときにも言ったが、まだ改善が見られない。譜面どおりには吹けている。だが、第四楽章にふさわしい“音の色”を、まだつかめていない。第三楽章とのコントラストを、もっと強く意識すること。……以上」

 土橋はそれ以上何も言わず、指揮台から静かに降りていった。

 そして練習室全体が、ようやく、沈黙から目を覚ますように動き出した。時刻は十八時十二分だった。

「あー、つかれたぁ」

 瑠璃が息を吐き、振り返りざまに私へと笑いかけてきた。

 その額にはうっすらと汗がにじんでいて、それがどこか誇らしげに見える。

「今日は、ホルンパート、何も言われなかったね」

「でしょ。オーディションのあと、あの地獄みたいな練習を乗り越えたからよ。第四楽章、かっこよく吹きたかったもん」

「ま、そのおかげで、大変だったんですけどね」

 口をはさんだのは、ホルンパートの二年生、熊谷君。長身で、少し気怠げな空気をまとった男の子。技術はあるのに、どこか本気を出しきらないタイプだ。

「お、生意気言うじゃないの、我が後輩!」

「だって先輩、しつこいんですよ。あの一小節、何回やらされたと思ってるんですか」

「そりゃ、ちゃんと吹けるようになるまででしょ。今じゃ、誰一人ミスってないんだから」

「……それはまあ、そうですけど」

「つまり、結果オーライってことよ。はい、論破」

「……はい」

 二人の掛け合いは、まるで漫才のようだ。

 けれど、不思議とそれが心地いい。互いにぶつかりながらも、芯では繋がっているのが伝わってくる。

「――ところで、千紗先輩」

 唐突に声のトーンを変えて、熊谷くんが私に向き直った。

「第三楽章から、第四楽章への切り替え。うまくいってないですよね」

 一瞬、胸の奥がざわついた。

「うん……。意識はしてるんだけど、なかなかね」

「なんというか、技術的な問題じゃない気がするんです」

「え? それ、どういう意味?」

 私の問いに、熊谷君は少し間を置いてから、言葉を選ぶように話し始めた。

「うまく言えないけど……明るいはずの第四楽章に、何かひっかかってるように聴こえるんです。たとえば……怒られた直後に、カラオケで盛り上がろうとしても、心のどこかが冷めてる、みたいな感じっていうか」

「ああ……」

 その例えが、妙にしっくりきた。私の中で、去年の十二月十五日が、静かに蘇る。

「何、言ってるの……?」

 誰かが割り込んできたと思ったら、それは雪ちゃんだった。頬を赤く染め、熊谷君を睨みつけていた。

「え? アドバイスのつもりだったんだけど」

 熊谷君は涼しい顔で答える。まるで自分の言葉が誰かを傷つけたなんて思ってもいない様子で。

「そういう問題じゃないでしょ。あんた、デリカシーとかないの?」

「俺……悪い?」

 とぼけたように言いながらも、熊谷君の視線がふと瑠璃に向かう。

 瑠璃は何も言わず、ただじっと彼を見ていた。その無表情が、何より効いたのだろう。熊谷君は観念したように黙り込んだ。

「――いいの、大丈夫」

 私は雪ちゃんに笑いかけ、そっと肩をすくめた。

「ありがとう。でもね、熊谷君の言ってることも、ちょっと分かるの。もう少し、自分でも考えてみる」

 その場を穏やかにやりすごしながら、私は瑠璃と目を合わせ、軽く手を振った。

「じゃ、練習行ってくるね〜!」

 夕焼け色の光が差し込む玄関へ、私は走り出した。

 胸の奥が、チクリと痛んでいた。悔しさと、何かもっと言葉にできないものが、ぐるぐると渦巻いていた。





 二〇一六年十二月二十日。

 あの病室を出たあとの記憶は、ほとんど残っていない。

 葬式があり、棺が焼かれ、そして、“それ”は、骨になった。

 クラスメイトたちは、「彼女と思っている私」に、どんな顔を向ければいいのか分からないようだった。目が合うたびに、慌ててそらす。その繰り返し。

 でも、そんなことは、どうでもよかった。

 私には、どうしても、あの冷たくなった物体が、大気君だとは思えなかった。信じたくなかった。

 ただひとつ、はっきり覚えているのは、葬式から帰宅した夜のことだ。

 祖母が居間でテレビをつけていた。夕飯前だったけれど、食欲はなかった。私は無言で祖母の隣に座り、ただぼんやりと画面を見つめた。

 事故の日以来、テレビを見るのは初めてだった。流れてくる映像は、どこか別の世界の話のようで、冷たい音だけが頭に響いていた。

 そこへ、あのニュースが流れた。

 祖母が気まずそうにリモコンに手を伸ばしたけれど、私は無意識にそれを制した。

 見なくていいはずの現実を、私は自ら選んだ。

「十二月十五日午後四時三十七分ごろ、甲府市飯田の新荒川橋で、暴走車が歩道に乗り上げ、男子高校生の輿水大気さん(十六)がはねられる事故が発生しました。輿水さんは病院に搬送されましたが、数時間後に死亡が確認されました。

 警察によりますと、イオンモール甲府昭和店付近で信号無視を繰り返していた乗用車を発見し、停止を呼びかけましたが、運転手はこれを無視。そのままアルプス通りを北上し、新荒川橋で車両のコントロールを失い、歩道に乗り上げたとのことです。

 暴走車はその後、河川に転落。運転していた二十代の男性は奇跡的に軽傷で済みましたが、検査の結果、基準値を超えるアルコールが検出されました。

 さらに男は『人を殺したくなった』と供述しており、警察は背後に、同年七月に起きた相模原障害者施設殺傷事件の影響がある可能性も視野に、危険運転致死傷などの容疑で捜査を進めています。

 なお、亡くなった輿水大気さんは第二甲府高校野球部のエースで、今夏の大会では学校初の県大会で決勝進出を果たしたプロ注目の選手でした。事故当日は部活動が急遽休みとなり、帰宅途中だったということです。

 監督の高橋教諭は会見で『自分の判断が、彼の運命を変えてしまったのかもしれない』と、深い後悔を滲ませました。

 また、事故直前、歩道で身動きの取れなくなっていた男子中学生をかばうようにして、輿水さんがはねられたとの目撃証言もあり、地域には大きな悲しみが広がっています」

 淡々とした声が、次々と事実を並べていく。その度に、心の奥が冷えていくのを感じた。 そして、犯人が警察署に入る映像が映し出された瞬間、私は息を呑んだ。

 その男は、カメラに向かって笑っていた。

 満面の、まるでピクニックにでも行く前のような笑顔で。

「俺、不死身〜。イェーイ!」

 ピースサインを掲げながら、彼は笑った。まるで、何もなかったかのように。

 え? 何それ……どうして――笑えるの?

 どうして、大気君を殺した人間が、そんな顔をしていられるの?

 理屈が崩れていく。世界の秩序が、音を立てて壊れていく。思考は混乱し、ただ目を背けた。逃げるように。

「千紗ちゃん!」

 祖母の呼びかけも聞こえなかった。

 私は無言で立ち上がり、自分の部屋へと駆け込んだ。扉を乱暴に閉め、ベッドに飛び込み、顔を枕に押しつけた。

 そして、ようやく泣けた。

 それまで、私はずっと冷静でいようとしていた。崩れてしまわないように、感情を封じ込めていた。

 でも、その瞬間、すべてが決壊した。

 泣いた理由は、犯人の笑顔のせいじゃない。

 違う。もっと別の何かに気づいてしまったからだ。

「ねえ、大気君。このカフェ、知ってる?」

「へえ、こんなところにあるんですね! 雰囲気、いい感じで」

「でしょ? いつか行ってみたいな~って、思ってたの」

 あの時の自分の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。

 もし、あんな話をしなければ。

 もし、彼が気を遣って、カフェを提案しなければ。

 あの時と同じだ。パン屋のときもそうだった。

 私は、いつだって、遠回しに“誘ってほしい”ってサインを出していた。それが、嬉しかったから。

 そして、今回も。そう。今回も。

「……私が、大気君を、殺したんだ」





 二〇一七年一月。

 冬の夜は、どこまでも冷たく澄んでいた。

 気づけば、信念が始まってから、私は一度も学校の門をくぐっていない。

 朝も夜も曖昧で、時間の輪郭さえ消え失せた日々。

 食事の記憶はほとんどなく、吹奏楽部の音さえ、遠い夢のように思えた。

 その代わりに、私の中に巣くっていたのは、終わりのない後悔と、名前のつかない罪悪感だった。

 考えても考えても、答えの出ない問い。何度頭を下げたところで、償えた気はしない。

 あの男が、ほんの少しでも悔いている様子を見せていたなら、私も、もう少し楽になれたかもしれない。

 けれど、現実は非情だった。彼は何も失っていない。痛みも知らない。

 だからこそ、誰かが責任を引き受けなければ、大気君の死は、ただの事故として消えてしまう。

 そんなのは、あまりにも、あんまりだ。

 彼の無念を、誰かが抱えていなければならない。

 そして、その“誰か”は、他ならぬ私なのだと思っていた。

 そう信じながら、自らを罰するように毎日を削っていた、ある晩のことだった。

 不意に、部屋のドアがノックされた。

「おい、入るぞ」

 低く、けれど確かに聞こえるその声に、私は跳ね起きた。

(信二?)

 一瞬、耳を疑った。

 こんな夜更けに、こんな場所まで?

 うちと彼の家とは、決して近くない。電車に乗り、さらに自転車を漕がければならない距離だ。

 こんな夢のような現実があるだろうか。あるいはこれは、熱に浮かされた幻聴かもしれない。

 しかし、ゆっくりと、ドアは開いた。

 部屋の灯りはついていなかった。

 それでも、月明かりが描いた輪郭の中に、彼の姿がはっきりと浮かび上がっていた。

 制服のコートを羽織り、凍えたような指先をポケットにしまったまま、信二は黙って立っていた。

「……」

 彼の瞳には、言葉にできない思いが滲んでいた。無表情に見えて、その奥にかすかな温度があった。

「……なあ、千紗。元気かとか、大丈夫かとか、そういう薄っぺらいことは言わない。でも……学校、来いよ」

 唐突だった。その一言が、私の胸を一突きにした。

 何も言えず、ただ彼の顔を見つめ返すしかなかった。

 彼は一歩踏み込み、少しだけ声を落として、もう一度言った。

「学校に、行こう」

 その瞬間、胸の奥で、乾いた枝がぽきりと折れる音がした。

 怒りとも悲しみともつかぬ感情が、静かに胸の底を満たしていく。

「……心配してくれて、ありがとう。でも……帰って」

 それ以上、言葉を続けることはできなかった。けれど、信二は諦めなかった。

「それはできない。学校へ――」

 その声が、私の中の何かを逆撫でした。

 これまで必死に押し殺してきたものが、じくじくと、地の底から湧き上がってくる。

「何なの!? なんで来たの!? 早く帰ってよ!!」

「……いや、来いよ。いつまでこうしてるんだ!」

 信二のまっすぐな叫びに、心がかすかに揺れた。

 でも、足りなかった。足りなかったのだ、彼の言葉だけでは。

「なんなの! 私なんか、学校行ったって意味ないでしょ!」

「そんなの、誰が決めたんだよ!」

 その言葉が、鋭く私の心を突き刺した。涙が溢れそうになったけれど、私はそれを必死に堪えた。

「私のせいで……大気君が死んだんだから! 私が間接的に誘った。私が返事を遅らせた。私が……全部壊したんだよ……! だから、私なんか、生きてる資格なんてないんだよ!」

 その言葉が、私の心の中で何度も反響した。自己嫌悪と絶望が、喉の奥に詰まって、息をするのも苦しい。

 信二は一瞬、何かを呑み込むように黙った。そして、彼の口から、思いがけない言葉が吐き出された。

「だったらよ……死ねよ」

 その声は、鋭く、震えていた。

「……え?」

 私は一瞬、耳を疑った。

「だったら死ねよ、死ねよ!」

 信二の怒りは、まるで今まで溜め込んでいたものが一気に爆発したかのようだった。彼の言葉が、私の心を深く引き裂いた。恐怖と混乱が、心の中で激しく渦を巻く。

「だったら俺が殺してやるよ!」

 その瞬間、信二は私の腕を掴んで、強引に引き寄せようとした。

 私は本能的に身を引いた。無意識にその手を振り払おうとしたが、信二はすぐに私を放した。

「……怖いと思っただろ」

 彼の声は、どこか痛々しく響いた。私の心臓が、ますます速く鼓動を打ち始めた。

「……」

「分かっただろ」

 その言葉が、空気の中で凍りついた。

「死んでどうする? それで、大気が喜ぶと思うのか?」

 言葉が喉元で止まり、私は答えることができなかった。

 息が浅く、喉が詰まって、涙がこぼれそうだったけれど、それをこらえきれなかった。

 信二の言葉が、まるで私の全てを否定するように響いた。

「千紗は、馬鹿じゃない。分かってるはずだ。今回の責任は、お前じゃない。あのサイコパス野郎だろ。なのに、お前まで自分を殺してどうすんだよ!」

 信二のその言葉が、胸に刺さった。が、しかし。私はあえて何も考えず、力任せに叫んだ。

「うるさい! もう何も言わないで!」

 その瞬間、私は近くにあったペンギンのぬいぐるみを掴んで、信二に向かって投げつけた。

 ぬいぐるみは、信二の顔に当たって、ポトリと床に落ちた。

 部屋に沈黙が訪れた。その静けさは、苦しみに満ちていて、私は言葉を発することができなかった。

 まるで時間が止まったような、長く、耐えがたい静けさの中で、私はただ顔を伏せるしかなかった。

 そして、ようやく絞り出すように言った。

「……ごめん。でも、お願いだから……帰って……」

 信二は、深いため息をついて、椅子に腰掛けた。その姿は、どこか疲れ切っていて、虚ろな目をしていた。

「俺も……大気がいなくなって、辛いよ」

 その一言が、冷たく凍りついていた私の胸を、ほんの少しだけ溶かした。

 顔を上げると、信二の目には涙が滲んでいた。

 私はその涙を見て、胸が痛んだ。

「俺さ、グラウンド整備のこと、大気から相談されてて……俺が整備を実現させるアドバイスして、それがきっかけで、事故が起きた。もしあの時、俺が言わなければ……あいつは……」

 信二の肩が震えていた。いつもとは違う、弱く、痛々しい信二の姿に、私の心が引き裂かれる思いだった。

「でも……俺、キャプテンだから。部員を励まさなきゃいけない。でも、本当は辛くて、怖くて……。泣きたくて、でも泣けなくてさ……」

 その言葉が、私の胸の奥に深く突き刺さり、涙が溢れそうになった。

「でも……時間がない。あと数ヶ月で、最後の大会なんだ。だから、生きるしかないんだよ。大気を理由に、前を向かないなんて、一番、大気を侮辱してる。口出しできない“死者”を、言い訳にするなよ!」

 重たい沈黙が、二人の間に流れた。しかし、その沈黙は、今までのどんなものとも違った。どこか温かく、包み込むような静けさが満ちていた。

 信二は、ほんの少しだけ笑った。

「千紗がいないと困るんだよ。……寂しいよ。だから、学校に来い」

 その一言で、私の胸にずっと堪えていたものが一気に決壊しそうになった。

 彼の涙、彼の言葉、そしてその全てが、私の心にしみこんでいくのを感じた。

 信二は「ごめん」と言いながら、手の甲で涙を拭った。その姿が、あまりにも愛おしくて、私もまた涙があふれそうになった。

 その時、私は自然に手を伸ばし、震える指で彼の頭を優しく撫でた。

 彼の髪を撫でながら、ただ小さな声で言った。

「……ごめん」

 信二は驚いたように私を見つめ、涙交じりに、少しだけ笑った。

「泣くなよ。山見に怒られる……」

 その言葉が、私の心に温かい灯をともしてくれた。信二がどれだけ私のことを思ってくれているのか、それが痛いほど伝わってきた。





 それからの私は、少しずつ回復していった。信二や瑠璃の支え、そして専門家のカウンセリングを受けながら、心の中の傷をゆっくりと癒していった。

 大気君のことも、時間をかけて整理できるようになった。辛いことがあっても、前を向く力を少しずつ取り戻していった。

 部活や勉強にも、やっと心が向かうようになった。四月の定期演奏会は、大成功を収め、私の中で何かが大きく動き出した気がした。

 そして、その日。信二に突然告白された。

 正直、驚きと戸惑いが交錯した。

 信二は、本当にいい人だ。感謝してもしきれないほど、彼は私にとって大切な存在だ。友達として、心から尊敬している。でも……。

 彼は、それも全部分かったうえで、「千紗の支えになりたい」と言ってくれた。

 その言葉が、私の心の中で何度も響いた。

 気づけば、私は涙をこらえながら、笑顔を浮かべていた。涙が溢れそうで、でもどこか晴れやかな気持ちで。

「……お願いいたします」


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