二〇一七年六月二十一日。
夕暮れの風が、グラウンドの熱気をほんの少し和らげていた。練習を終えた部室では、汗まみれのシャツのまま、二年生たちが学園祭の話題で騒がしく盛り上がっている。
この時期、山梨の高校では、どこもかしこも学園祭一色になる。だが、夏の大会を目前に控えた野球部にとっては、まるでタイミングを間違えた厄介なイベントに過ぎなかった。
「いやね、皆の衆。今年の朱雀祭マジックに、俺は全てを賭けているわけよ。だって華のセブンティーンよ?」
どこか芝居がかった口調で、はじめが言った。
「はじめ、お前が言うとマジできもい」
即座に、りんが突っ込みを入れる。
そのやりとりに、部室はどっと笑いに包まれた。
朱雀祭マジック。
その名前を耳にしたとき、記憶の奥で、何かが微かに弾けた。
確か、そんな伝説めいた恋愛成就の儀式が、この学校にはあった。
くだらない。……いや、くだらないと思いたい。
けれど、もしも。そのマジックで、千紗先輩にもう一歩、近づけるとしたら。
最近は、朝練で毎日のように顔を合わせている。
お互いのことを少しずつ話し、ほんのわずかな沈黙さえも心地よい時間に変わってきた。
先輩は、ときおり遠くを見つめるような瞳をする。
何かを抱えているのだろうと、感じる瞬間がある。
だけど、そんな時でも、俺の何気ない一言で、ふっと笑ってくれた。
それだけで、救われたような気がして、
それだけで、自分という存在が、また誰かの役に立てている気がして。
あの声を、あの表情を、もっと近くで見ていたい。そう思ってしまう自分が、確かにここにいる。
「あーでもさ、いいよな、キャプテンは。ああいうのしなくても余裕なんだから」
はじめがぽつりとこぼした言葉に、耳が勝手に反応していた。
「え、そうなの?」
我ながら思わずの一言だった。
問い返した声が少し裏返っていた気がして、すぐに後悔する。
周囲の空気が、ふと意味ありげに揺れた。
信二。あいつ、まさか彼女がいるのか?
キャッチャーで、キャプテンで、四番打者で、それでいて彼女持ち?
冗談じゃない、完璧すぎるだろ、それ。
そんな俺の動揺を見逃すはずもなく、はじめがにやりと笑いながら、肩を軽く叩いた。
「あらあら~、気になっちゃった? 光くん♡」
「うっさいわ……」
そう言いながらも、胸の奥がざわつくのを抑えきれない。
「でもさ、デートしてるとこなんて見たことなくない?」
「そりゃそうだろ。千紗さんも吹奏楽部でめっちゃ忙しいからな」
俺の頭が一瞬フリーズする。
千紗。
え?
千沙って、もしかして橘千紗先輩のことか?
動揺を隠せない俺に、はじめが嬉しそうにさらに続けた。
「あ、光は知らないよね。橘千紗先輩のこと。吹奏楽部のエース的な存在で、めっちゃ美人。校内でも超人気あったんだけど、部活に集中したいからって、ほとんど振ってきたらしい。でも、今年の四月くらいだったかな? キャプテンと付き合い始めたんだよね」
頭の中が真っ白になる。
千紗先輩が、信二の彼女?
冗談だろ。いや、そうじゃない。はじめは本気で言っている。あいつは嘘が下手だ。
俺は顔が熱くなるのを感じながら、何とか言葉を絞り出した。
「へ、へえ~」
ぎこちなく返事をすると、はじめたちは俺の反応が面白かったらしく、腹を抱えて笑い始めた。ピュアかよって。でも、俺は笑えなかった。何も考えられなかった。
その後、部室をどうやって出たのか、家に帰ったのか、全く覚えていない。ただ、先輩と信二の名前が頭の中で何度もリフレインして、心の中に、もやもやとした気持ちが広がっていくのだけは、確かだった。
風呂上がりに居間に降りると、祖母がテレビに釘付けになっていた。最近退職して暇になった祖母は、地元の図書館でビデオを借りて観るのが日課らしい。
今日の映画は『ルパン三世 カリオストロの城』。
「一緒に見る?」と、祖母がにっこり笑って誘ってきた。
明日も早いし、正直すぐにでも寝たい気分だったが、寝られる精神状態ではなかった。少しでも気を紛らわせようと、結局、つい最後まで観てしまった。
小さい頃に一度観たことがあったけれど、大人になってから改めて見ると、印象が全く違った。特に心に残ったのは、ラストシーンだった。
ルパンに助けられたヒロインが彼に惚れ込んで「泥棒の仲間にして連れて行ってほしい」と懇願する場面。あの本気の顔、ルパンに対する純粋な想いが伝わってきた。
ルパンもきっと、彼女のことが好きだったんだろう。けど、それでも彼は少し悩んだ後に、「君には君の人生がある」的なことを言い残して立ち去る。
ヒロインの後ろ姿が切なく、心にグッときた。
映画が終わり、エンドロールが流れる中、祖母がポツリと呟いた。
「ルパンって、かっこいいね」
「なんで?」と俺が尋ねると、祖母は画面を見つめたまま、少し微笑んだ。
「本当に大切な人だと思ったらね、その子の未来を考えてあげるのよ。自分の気持ちじゃなくて、相手にとっての一番の幸せをね」
その言葉を聞いた瞬間、胸がザワついた。まるで心臓に直接響くような、強烈な感覚だった。
帰ってきた母に「まだ起きてるの?」と怒られ、慌てて自分の部屋に引っ込んだ。布団に入った途端、祖母の言葉が再び胸を突いた。
「俺は……本当に、千紗先輩の幸せを願えているんだろうか?」
その問いは、夜の闇のなかで何度も反響した。
脳裏に渦を巻き、やがて胸の奥深くまで沈み込んでいく。
先輩のことを想っているつもりだった。
けれど、それは本当に“彼女のため”だったのか。
ただ、自分が会いたいだけ。
忘れられないだけ。
会いたくて、触れたくて、言葉を交わしたくて。
ただ、それだけの、身勝手な感情なのではないか。
けれど、それだけでは片づけられない。
簡単に割り切れるほど、先輩への想いは浅くない。
もう会わないと決めたところで、胸の奥では叫びが止まらない。
「それでも、俺は……」
誰にでもなく、心の内に呟いた。
涙にもならない感情が、ひたひたと溢れてくる。
無理に飲み込もうとしても、あふれ出る想いはどうしようもなかった。
だけど――わかっている。
それでも、彼女が幸せであるなら。
彼女が、信二と笑い合えるのなら。
俺には、それを壊す資格なんて、どこにもないんだ。
それが、俺の出した答えだった。
「大切な人が、幸せでいてくれる。それだけで、きっと、いいんだ」
そう言い聞かせても、涙は止まらなかった。
言葉では処理できない感情が、夜の静けさの中でじんわりと頬を濡らす。
そして、ただ一つ、確かにわかっていることがあった。
「俺にできることは……甲子園に連れて行くことだけだ」
あの日、台風の朝、ふと先輩が言った言葉。
「甲子園だと、もっとすごかったんだろうね……」
おそらくそれは、ただの呟きだった。
願望でもなければ、期待でもない。
けれど、あのとき先輩が見たかった“何か”があるのなら、その景色を、俺が見せるしかない。
信二のために。
千紗先輩のために。
そして、自分自身のために。
泣き疲れて、ようやくまぶたが閉じたとき、
胸の奥に、わずかな覚悟が芽生えていた。
その覚悟だけが、今の俺の、生きる理由だった。