二〇一七年六月二日。
六月に入り、練習試合が増えてきた。
グラウンドには夏の匂いが漂い始め、チーム全体に少しずつ緊張感が走る。
今年のエース、東さんはさすがだ。どんな場面でも落ち着いて投げ、きっちりとチームを引っ張っている。その姿に、やっぱり頼もしさを感じる。
一方で、問題は控えだ。
矢部は急遽ピッチャーにコンバートされたらしい。俺がいた時は外野手だったけど、球筋自体は悪くない。しかし、試合中に見せる小さな動揺が気になる。だからこそ、信二も監督も俺を戦力としてカウントしているんだろう。
練習試合では、徐々に実戦登板の機会が増えてきた。しかし、正直、あまりいいピッチングができていない。以前のように自由に投げられないもどかしさがある。
だからこそ、やることはひとつ。とにかく練習を重ねることだ。
隙間時間を全部使い切る勢いで、朝は誰よりも早くグラウンドに出て、夜は家に帰ってからもシャドウピッチングを繰り返した。
その姿を見てからだろうか。りんやはじめたちが少しずつ、話しかけてくれるようになり、昼休みには一緒に弁当を食べるようになった。気づけば、以前のように仲間と笑い合う時間が増えてきた。そして、いつしか、俺が「工藤光」であることさえ、忘れそうになる瞬間があった。
けれど。
現実は、容赦なく立ち止まらせる。
それは、毎朝のルーティン。生前と同じように始めた朝練。野球部に入った初日から、自然と体が五時半に目覚めるようになった。
その日も、心が少し弾んでいた。
どこか、今日なら何かが変わる気がしていた。
昇りかけの朝陽に照らされた校舎が、静かに佇む。
まだ誰の声も響かない体育館を抜け、朱雀会館の方へと歩くと、一人の女子生徒の後ろ姿が目に入った。
――いや、女子生徒ではない。
俺の、愛する人だった。
ブレザーの袖を少しまくって、楽譜の入ったバッグを軽く肩にかけ、あの頃と変わらぬ歩幅で歩いている。
心が跳ね上がり、喉の奥がぎゅっと詰まった。
声をかけたい。でも、なんて言えばいい?
こんな朝に、こんな場所で、唐突に「久しぶり」とでも?
足が止まった。息が止まりそうになった。
そして結局、そのまま、後ろ姿を見送るだけで終わってしまった。
だけど、今は、もうただの幽霊じゃない。
あの頃とは違って、「話せる距離」にいる。
何よりも、時間は永遠じゃない。
そして五日目の朝。
俺はようやく、その距離を、ほんの少しだけ、踏み越えた。
「……おはようございます!」
六時半。
空気にはまだ朝の冷たさが残り、足元の草に、ひっそりと朝露が光っていた。
朱雀会館の前。その静けさの中、先輩がふと立ち止まり、こちらを振り返る。
目が合った。
その瞬間、先輩の表情がふっと揺れた。
驚きと、戸惑いと、どこか懐かしさの入り混じったまなざし。
そして、ほんの一瞬の後、潤んだ瞳が朝の光を掠めた。
まさか、そんなふうに見つめられるとは思っていなかった。
「あ……ご、ごめんなさい。おはようございます」
声は、かすかに震えていた。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「うん……うん、大丈夫です。なんか、ちょっと、びっくりして……こんな時間に誰かと会うことなんて、あんまりないから……。あれ……なんで、涙が……」
千紗先輩は笑おうとした。
でも、その笑顔はすぐに形を崩しそうで、まるでガラス細工のように危うかった。
俺は、ただ立ち尽くしていた。
手を伸ばすことも、さらに言葉をかけることもできなかった。
ほんの一言が、どうしても喉の奥から出てこなかった。
もし、俺がまだ輿水大気だったなら。
ためらわずに近づき、その肩にそっと手を添えることもできただろう。
泣かないで、と言えたはずだ。彼女の涙を、静かに拭ってやることも。
けれど今の俺は、「他人」だった。
先輩の微笑みが、どこか遠くて。
不意に流れた涙の意味を、聞くことすらできなくて。
心の奥で、またひとつ、悔しさが小さく疼いた。
距離は近いのに、手が届かない。
そのもどかしさだけが、確かに俺の胸に残った。