「……おい、光のやつ、ベンチ裏に走っていったな」
はじめの声がグラウンドの片隅で響いた瞬間、周囲の空気がふっと揺らいだ。誰もがその意味を悟り、目を見交わす。だが、誰よりも先に、信二が肩をひとつ、すっとすくめた。
「……うんこが、ヤバいらしい。荷物の片づけ、頼むってさ」
その言葉はあまりに唐突で、あまりに不自然で、あまりに信二らしかった。
一拍の沈黙の後、ぱっと花が咲くように、笑いがそこかしこでこぼれた。
信二は静かに口角を上げた。いつものような、飄々とした笑み。けれどその視線は、誰とも合わぬまま、スタンドを見つめていた。
その眼差しの奥で揺れていたのは、寂しさか、それとも祝福か。たぶん、どちらもだったのだろう。
目を伏せたまま、信二は静かに呟いた。
「……ああ、お二人さん。お幸せに」
訳も分からず、ただ走っていた。
足は千切れそうで、呼吸はとっくに限界を超えているのに、不思議と止まらなかった。
まるで何かに引き寄せられるように。いいや、何かが、魂の奥底から俺を突き動かしていた。
係員の制止も、叫ぶ声も、スパイクが脱げても、すべてが遠く霞んでいく。
ただひとつ、心の奥の衝動だけが、明確な形を持って俺を突き動かしていた。
出口が見えた瞬間、胸が高鳴った。
そこに――千紗先輩が、きっといる。
光の中へ駆け出すと、目の前に現れたその人は、まるで夢の中の幻だった。
夏の陽炎のように、柔らかく揺れて、それでも確かにそこに立っていた。
千紗先輩。
目と目が合った瞬間、時間が凍りついた。
歓声も風の音も消えて、世界がふたりだけのものになった。
そして俺は、無我夢中でその人に向かって走り出していた。
頭の中は真っ白で、言葉も意味も持たない。ただひとつ、彼女に触れたいという本能だけが、全身を動かしていた。
ようやく辿り着いたその場所で、何も言わずに、ただ抱きしめた。
体が震える。けれど、その震えさえ、彼女の温もりがすべて包み込んでくれた。
涙が出そうになる。だけど、今は泣きたくなかった。ただ、この瞬間が終わらないでほしかった。
「……先輩」
喉の奥で言葉が揺れた。その震えに応えるように、先輩がそっと囁く。
「……私も」
たったそれだけで、胸がいっぱいになった。
こんなに満たされるなんて、思ってもみなかった。
「……ありがとうございます」
何度も伝えたかった想いは、たった一言にしかならなかった。
けれど、その一言に、すべての気持ちが詰まっていた。
「……いい音色でした」
そう言うと、千紗先輩が顔を上げた。
あの日と同じ、いや、あの日よりもずっと深く、美しい微笑みだった。
「そうでしょ。……誰かさんが、喜びを届けてくれたからね」
彼女の瞳が優しく揺れている。
それを見て、心の奥がじんわりと熱くなった。
「でも、負けちゃいました」
「本当にね。でも……かっこよかったよ」
その一言で、すべてが報われた気がした。
傷だらけの今日が、誇らしい記憶に変わっていく。
「……だから、ご褒美、あげなきゃね」
彼女がそっと顔を寄せ、耳元で囁いた。
「待たせてごめんね、大気君。……私、ずっとあなたを想ってたよ」
その声が、心の奥まで染み込んでくる。
体中の細胞が、その言葉に応えているようだった。
離したくなかった。
ようやく見つけた大切な人を、この腕の中から手放したくなかった。
彼女も、俺を強く抱き返してくれる。
ようやく、ようやく、たどり着けた。
「……このまま、ずっと」
口に出したその言葉が、まるで祈りのように、空に吸い込まれていく。
心から愛おしいと思える人と、こんなにも近くにいる奇跡。
その奇跡の中で、ようやく世界が満ちていった。