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二〇一七年八月十日 その4

「……おい、光のやつ、ベンチ裏に走っていったな」

 はじめの声がグラウンドの片隅で響いた瞬間、周囲の空気がふっと揺らいだ。誰もがその意味を悟り、目を見交わす。だが、誰よりも先に、信二が肩をひとつ、すっとすくめた。

「……うんこが、ヤバいらしい。荷物の片づけ、頼むってさ」

 その言葉はあまりに唐突で、あまりに不自然で、あまりに信二らしかった。

 一拍の沈黙の後、ぱっと花が咲くように、笑いがそこかしこでこぼれた。

 信二は静かに口角を上げた。いつものような、飄々とした笑み。けれどその視線は、誰とも合わぬまま、スタンドを見つめていた。

 その眼差しの奥で揺れていたのは、寂しさか、それとも祝福か。たぶん、どちらもだったのだろう。

 目を伏せたまま、信二は静かに呟いた。

「……ああ、お二人さん。お幸せに」





 訳も分からず、ただ走っていた。

 足は千切れそうで、呼吸はとっくに限界を超えているのに、不思議と止まらなかった。

 まるで何かに引き寄せられるように。いいや、何かが、魂の奥底から俺を突き動かしていた。

 係員の制止も、叫ぶ声も、スパイクが脱げても、すべてが遠く霞んでいく。

 ただひとつ、心の奥の衝動だけが、明確な形を持って俺を突き動かしていた。

 出口が見えた瞬間、胸が高鳴った。

 そこに――千紗先輩が、きっといる。

 光の中へ駆け出すと、目の前に現れたその人は、まるで夢の中の幻だった。

 夏の陽炎のように、柔らかく揺れて、それでも確かにそこに立っていた。

 千紗先輩。

 目と目が合った瞬間、時間が凍りついた。

 歓声も風の音も消えて、世界がふたりだけのものになった。

 そして俺は、無我夢中でその人に向かって走り出していた。

 頭の中は真っ白で、言葉も意味も持たない。ただひとつ、彼女に触れたいという本能だけが、全身を動かしていた。

 ようやく辿り着いたその場所で、何も言わずに、ただ抱きしめた。

 体が震える。けれど、その震えさえ、彼女の温もりがすべて包み込んでくれた。

 涙が出そうになる。だけど、今は泣きたくなかった。ただ、この瞬間が終わらないでほしかった。

「……先輩」

 喉の奥で言葉が揺れた。その震えに応えるように、先輩がそっと囁く。

「……私も」

 たったそれだけで、胸がいっぱいになった。

 こんなに満たされるなんて、思ってもみなかった。

「……ありがとうございます」

 何度も伝えたかった想いは、たった一言にしかならなかった。

 けれど、その一言に、すべての気持ちが詰まっていた。

「……いい音色でした」

 そう言うと、千紗先輩が顔を上げた。

 あの日と同じ、いや、あの日よりもずっと深く、美しい微笑みだった。

「そうでしょ。……誰かさんが、喜びを届けてくれたからね」

 彼女の瞳が優しく揺れている。

 それを見て、心の奥がじんわりと熱くなった。

「でも、負けちゃいました」

「本当にね。でも……かっこよかったよ」

 その一言で、すべてが報われた気がした。

 傷だらけの今日が、誇らしい記憶に変わっていく。

「……だから、ご褒美、あげなきゃね」

 彼女がそっと顔を寄せ、耳元で囁いた。

「待たせてごめんね、大気君。……私、ずっとあなたを想ってたよ」

 その声が、心の奥まで染み込んでくる。

 体中の細胞が、その言葉に応えているようだった。

 離したくなかった。

 ようやく見つけた大切な人を、この腕の中から手放したくなかった。

 彼女も、俺を強く抱き返してくれる。

 ようやく、ようやく、たどり着けた。

「……このまま、ずっと」

 口に出したその言葉が、まるで祈りのように、空に吸い込まれていく。

 心から愛おしいと思える人と、こんなにも近くにいる奇跡。

 その奇跡の中で、ようやく世界が満ちていった。


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