「次もチャンステーマで!」
マネージャーの声が、雷鳴のように響く。瑞希がすぐに指揮を執ると、観客席の応援が一段と熱を帯びた。
今日初めて訪れた好機。この瞬間を逃せば、次はないかもしれない。
観客席からの声が重なり合い、ひとつの大きな波となって押し寄せる。
「ボール!」
その一言が、張り詰めた空気を切り裂いた。球場全体が一瞬、息を呑む。
次の一球を待つ刹那、ふと目を向けると、マネージャーと瑞希が小さく言葉を交わしていた。
焦燥が伝わってくる。ただの応援ではない。全員が、この試合に心を懸けている証だ。
マネージャーの手元に視線をやると、カンペには次の曲の指示が記されている。
観客席の熱はさらに膨れ上がり、声援がひとつのうねりとなる。選手たちはその熱を背負い、次の瞬間にすべてを懸けていた。
(やべえ、もう時間がない)
記憶が霧のように濃く、意識がふらふらと揺れ動く。頭の奥が鈍く痺れ、視界はうっすらと揺らぎ、現実が少しずつ溶けていくようだった。
無意識のうちに、バットの先でヘルメットを軽く叩く。
けれど、あれ? これ、前にもやったことがあるような気がする。
不安が胸の奥をぐっと締めつける。何かが、ひどく違和感を感じさせる。
じわじわと、焦燥の波が押し寄せる。息が浅くなり、喉が渇いて、まるで体の中から何かが消えかけているようだ。
(やばい、やばい、焦るな)
必死に頭を振って、目の前の一球に集中しようとするが、体が反応しない。どうにかして、この打席を乗り越えなければならない。
ピッチャーがモーションに入った瞬間、全身の血液が一気に凍りついた。
(やばい、タイムを取るタイミングを逃した)
冷たい汗が背中を滑り落ち、指先が震える。
慌てて構え直そうとするが、体が石のように固まり、どうすればいいのか分からなくなる。
バットの重みが、今まで感じたことのないような異質さを持って、手の中でひどく歪んでいるような気がした。
(やばい、やばい、やばい!)
冷静さが音を立てて崩れ落ちていく。頭の中がぐちゃぐちゃに絡み合い、思考が途中で途切れてしまう。しかし、混乱と焦りの中、耳だけは異常に冴えていた。
「パパパ! ~パパ……」
先輩の音だ。
胸の奥で何かが弾けた瞬間、全ての雑音が一気に消え去る。
世界が、信じられないほどに澄み渡った。視界が鮮明になり、まるで時間が止まったように感じられた。
無意識のうちに、体が自然に動く。目の前に迫るカーブに、無駄な考えを排除して、ただただ喰らいついた。
「ファール!」
乾いた打球音と共に、白球が三塁側スタンドへと鋭く弾け飛ぶ。
俺は思わず、顔をそちらに向けた。
その瞬間。
鳴り響いていたのは、『必殺仕事人』。
トランペットの音色が、球場のざわめきを貫いて浮かび上がる。
間違いない、大気の応援歌だ。
鼓膜を揺らすその音は、まるで過去の扉をこじ開ける鍵のようだった。
ああ、そうだ……そうだよ。
朝の朱雀会館の前、何度も耳にしたあの音色。
千紗先輩が、管に命を吹き込んでいた、あの夏の音。
胸が熱くなる。
目を閉じて、深く息を吸い込む。
肺の奥まで夏の空気が満ちていく。
ざわめいていた心が、潮が引くように静まり返る。
もう迷わない。
俺がやるべきことは、ただ一つ。この一球を、自分のすべてで打ち崩すこと。
ピッチャーが首を振る。一度、そして二度。
ほんの一瞬、迷いが走る。だが、最後には小さく頷いた。
その仕草を見て、俺は確信した。
(あいつ、自分のプライドを押し殺したな)
ならば俺は、誇りを懸けて立ち向かう。
決着をつけよう。ここが終点だ。
白球が放たれる。
それはもう球ではなかった。光だった。
時間が引き伸ばされる。世界がスローモーションになる。
視線がとらえ、意識が追いつき、体が動く。
無心で、ただバットを振り抜いた。命の限り。
「うぉぉぉぉぉお!!!」
打った瞬間、腕に電流が走る。
魂が歓喜の悲鳴をあげ、喉が裂けるように叫び声が飛び出した。
今日一番の、いや、人生で一番の叫びだった。
俺は夢中で、一塁へと駆け出した。
「安村さん。今日の試合はいかがでしたか?」
「スコアとしては、四対一。大阪TI学園が勝利を収めましたが、これがただの結果だけでは終わらない、素晴らしい試合でしたね」
「序盤から終始緊迫した展開でしたが、やはりカルテットの活躍が目を引きました。特に、ダメ出しのツーラン。あれはもう、言葉が出ないほどの見事な一発でした。そうすると、今日のMVPはカルテットの一員、千国君ということになりますか?」
「もちろん、千国君の活躍も素晴らしいですが、今日は間違いなく第二甲府の工藤君ですね」
「工藤君ですか?」
「はい。大阪TI相手に、あのように粘り強く投げ続けた工藤君の姿勢は、正直、言葉に尽くせないほど感動的でした。守備の堅実さや三浦キャプテンのリードも光りましたが、それ以上に工藤君のピッチング。あの一球一球には、心からの拍手を送りたい」
「本当に、私も鳥肌が立ちました。そして試合が終わった今でも、こうして拍手が続いていますね。試合は終わっているのに、この温かい拍手は、まさに工藤君をはじめ、選手全員の頑張りに対する賛辞です」
「ええ、勝った大阪TIも、負けた第二甲府も、どちらも素晴らしいチームでした。両チームともに、試合後にそれぞれの観客席に向かって挨拶をしています。その姿が、また観客を感動させているのでしょう。今、両方の観客席からの拍手が、どんどん大きくなっていっていますね」
「うぉ!!! 感動した!!!」
松田君の声かと思った。しかし、振り返ると、そこにいたの土橋だった。
まるで少年のように拳を突き上げ、目を輝かせている。土橋が、こんなにも熱くなっているなんて。信じられないほど、素晴らしい試合だった。
「ほら、下に行こう!」
瑠璃に手を引かれ、選手たちのもとへと近づいていく。
瑞希の隣を通る瞬間、ふと声をかけた。
「瑞希も一緒に行こう」
彼女は笑いながら、私の隣を歩き出し、一緒に階段を降りる。
少し気になって、尋ねてみた。
「なんでさっき、あの曲にしたの?」
「あ……。いや、野球部のマネージャーから頼まれてね」
「そっか。びっくりしたよ」
「もともと、いつかここぞというタイミングで流したいって言われてたし。千紗なら、いきなりでもいけるかなって」
「ははは、きついよ、さすがに。でも……ありがとう」
「けど、あれね」
「何が?」
「千紗、あの音は喜びにあふれていたよ」
瑞希はそう言って、先に階段を降りて行った。
あれ? 私、喜んでいたんだろうか。
そんなことを考えながら、瑠璃たちと一緒に野球部のみんなに向かって手を振る。
「お前ら好きだぞ!!!」
一瞬、松田君の声かと思った。でも、振り向くと、号泣していたのはクラスメイトの須賀君だった。
あれ? こんなキャラだったっけ。
ふと目をやると、信二とも目が合う。
お互い、不思議な気持ちのまま、穏やかに手を振った。
まるで、昔の友人に戻ったかのように、ただ自然に。
心の奥に、あたたかい安心感が広がっていく。
でも、次に目が合ったのは工藤君。いや、大気君だ。
その瞬間、大気君が見せたのは、これまで一度として見たことのない、嘘のない、心の奥から湧き上がった笑顔だった。
それはもう、工藤光の仮面をかぶった誰かのものではない。
紛れもなく、輿水大気という一人の少年が、生きて、ここに在ると告げるような、鮮やかな微笑みだった。
何かが、一瞬にして胸の奥深くに刻みつけられた。
時間も、名前も、記憶さえも、すべて風化していくかのように見えた世界の中で、ただその笑顔だけが、確かに存在していた。
(記憶が失われていくなんて――そんなの、嘘だ)
心の底から、そう思った。願いではなく、祈りでもなく、それは確信だった。
たとえ時間が奪い去っても、この瞬間に宿った熱だけは、消えない。
大気君の笑顔も、私たちの交わした想いも、どこまでも深く、この胸の奥に焼きついている。
永遠に、忘れられるわけがない。
その確信が胸に灯った次の瞬間、気づけば、私はスタンドを飛び出していた。
足が、勝手に動いていた。いや、心が、叫んでいたのだ。
何かを求めて、何かを取り戻すために。
このままじっとしてなんか、いられなかった。
風を切り、陽を背に受けながら、私は球場の外へと駆け出した。