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二〇一七年八月十日 その2

「おい、信二。そろそろ決めてくれや」

 ネクストバッターズサークルに向かう前、大気がけだるそうに言ってきた。その口調には余裕を見せたがっているのがわかる。けれど、その裏には緊張と覚悟が隠れているのも、俺にはわかっていた。内心では笑いたくなるが、そんな余裕を見せることはできない。俺は黙って打席に立つ。

 けれど、この試合、しんどい。相手がどれほど強いか、その実力を肌で感じている。

 大阪TI学園。間違いなく、全国トップクラスのバッターたちが揃っている。去年、あの金丸さん率いる甲斐学院を倒した打線。だが、今日、これだけ打たれながらも、どうにかこうにか試合を進められていることが、俺には不思議に思える。

 去年の大気なら、もうとっくに崩れていたかもしれない。でも、今は違う。

 大気、お前は、変わった。いや、成長したんだ。大気のピッチングは、どこか冷静で、精度が上がっている。速さだけが全てではない。俺がよく知るように、お前は、今、完璧にコントロールしている。相手を一球一球で追い込んでいく、その姿が頼もしい。

 お前の進化が見えるからこそ、俺も絶対に応えたい。

(それでも、気合だけじゃ、このピッチャーは打てないだろうな)

 思わずそんな考えが頭をよぎる。やはり、ドラフト有力候補の相手エースは、並大抵のものじゃない。でも、今日だけは、それ以上に大気が別格だ。

(大気、頼むぞ)

 その言葉を心の中で何度も繰り返していた。

 これが、この夏の最後かもしれない。おそらく、それは工藤光ではなく、大気にとってもだ。二年生のくせに、精神的には完全に三年生。いや、人生最後かもしれないからこそ、それ以上の気迫が感じられる。

「キーン!」

 戸堂の打球がしっかりと外野に飛んでいく。それを見届けた瞬間、ようやくノーアウト一塁、チャンスが広がった。

「よし、行け!」

 大気の声が響く。

 監督の視線を感じ、そこには「お前に任す」の一言が込められていた。わかっている。この相手ピッチャーのカーブは鋭くて、誰もが手こずっている。でもな、俺が何年間も見てきた大気のカーブに比べたら、大したことはないはず。そう思っていた。

「ゴンッ!」

 嘲笑うかのように、初球フォークボール。

 バットがかすった瞬間、ボールが詰まった感触と共に、三塁側のベースラインへとボールが流れた。ギリギリのコースだったが、反応した瞬間に「出るな」と無意識に感じ取った。

 そして、足音がグラウンドに響き渡る。振り返る暇もなく、ただひたすらに一塁へ全力で走り続ける。その瞬間、後ろから「シュッ」と音を立てて、送球が飛んできた。

「アウト!」

 その声が、重く響き渡る。

 肩の力が抜け、ベンチに向かって歩き出す。

 仮にベースラインに残ったら、ノーアウト一塁、二塁。次のバッターが打つことで、最悪同点の状況が生まれる。

 俺の打球はファウルの可能性もあったが、それならばさっさとアウトにして、次を抑えれば良い。相手のキャッチャーは、そんなことを考えていたのだろう。

 ちらりと相手のキャッチャーを見やると、目の前には鋭い眼差しがあった。なるほど、大した自信だ。

 俺の相棒なら、次の打者も必ず抑えてくれるはず、か。

 だがもう、俺の役割は終わった。ランナーを進めることができた。後は大気に任せるだけだ。





 試合は佳境に入っていた。

 大気の打順は一つ上がっていた。元々三塁を守っていたカット打法の上野先輩を二番にし、打率の高いメンバーで上位打線を固めた。少しでも点が取れたらという狙いだ。しかし、そのチャンスが回ってくるのが自分だという現実。正直、面白いと思いながら、思わず笑みがこぼれた。

 打席に立った瞬間、ふっと、全ての音が途切れたように感じた。

 グラウンドのざわめき、風の音、観客の声。すべてが消え、ただピッチャーの投球と、それに向かう自分だけが存在する。

 ピッチャーの目にも、無駄な感情は一切なかった。冷徹で、まるで未来を見透かしているような眼差し。何かを語りかけてくるその瞳に、思わず息を呑んだ。

(こいつは、プロに行くのか)

 そう思いながらも、無意識に監督の方を見た。

 指示を求める視線。それに対して、監督は何も言わず、ただ静かに頷いた。

「好きに打て」

 その言葉が、耳元で響く。

 相変わらず放任。けれど、俺たちに考えさせることを求めている。

「社会人になったらな、勉強と違ってやったことない、前例がない、訳わからない、そんな物ばかりだ。だからこそ、そういう物に出会った時に、どう対処するか。問題解決へのプロセスもそうだが、どういう態度で、どうやって周りの人を巻き込んでいくか。それを学べ」

 監督がよく言っていた言葉。最初は意味がよくわからなかったが、この瞬間、何かを掴んだような気がした。試合という現実の中で、どんな状況に対しても自分で考え、行動しなければならないということ。それは、ただの結果を超えて、自分自身を問われる瞬間だった。

 俺は少し笑みを浮かべ、監督に頷く。

 けれど、監督は、本当はどう思っているのだろうか。あの日、たまたま練習が休みになったから、俺はいつもより早く帰ることができた。でも、その結果が、「死」に繋がった。

 その後、ニュースで監督が自分自身に責任を感じていることを知った。あの言葉の裏には、どれだけの重みがあったのだろうか。おそらく、バツイチで一人暮らしをしている監督にとって、自分の行動が招いた結果を一人で背負い込んでいるのだろう。正直、少し心配にもなる。

「プレイ!」

 その声が、まるで自分の心を引き戻すかのように響く。

 でも、どう考えても、俺を殺したあのチンピラが悪い。あいつさえいなければ、こんなことにはならなかったはずだ。

 怒りが込み上げる。だが、その感情をすぐに振り払って、バットを構える自分に集中する。

「ボール」

 外角低めに外れた。

 でも、なんだろうな。今、自分が甲子園のマウンドに立っていることが不思議で仕方ない。あの出来事がなければ、あの未熟な俺は、この場所に立つことすらできなかっただろう。

「ファール」

 ストレートに詰まる。

 一年の夏、少し天狗になっていたかもしれない。エース番号を手に入れ、練習を重ね、結果を出すたびに嬉しくてたまらなかった。特に、指にボールが馴染む感覚は、何物にも代えがたい心地よさだった。

 だが、全てを失って初めて気づいた。どれほど恵まれていたのか、ということに。

「ボール」

 その日常は、驚くほど簡単に消え去った。

 マウンドに立つこと、ただ野球ができること、それがどれほど貴重なことか、痛いほど理解した。

 特に今の家族には、感謝の気持ちで胸がいっぱいだ。

 裕福とは言えない家で、母親はシングルマザーとして、俺を支えてくれた。用具の購入費から、洗濯、食事、すべてを面倒みてくれた。祖父母も温かく見守ってくれて、今、ようやくそのありがたみが心にしみる。

 特に、他人から注がれる無償の愛情こそが、これまで受けてきたものの価値を気づかせてくれた。

「ファール」

 だけど、だからこそだ。

 俺はもう、いなくならなければならない。この身体を、しっかりと工藤光に返さなければならない。

 本来注がれるべき愛情は、俺ではなく、工藤光にこそ向けられるべきだ。

 悲しいことに、死者にはもう居場所はない。世の中は、自分がいなくても、何事もなかったように進んでいく。

「ファール」

 でも、それでも。この試合だけは、わがままを言わせてくれ。

 あの世から舞い戻ってきたように、未練が残っている。そして、成し遂げたかったことがある。だから、この試合が終わったら、俺はもういなくなっても構わない。そう、心の中で思っている。

 心残りの一つである、本当の親について。きっと、今、俺のプレイを見ているだろう。特に、親父も野球が好きだったし。

 今まで本当の親にも何一つできなかったけれど、これが親孝行になるのだろうか。あまりにも一方的で、送り主が分かりにくい親孝行かもしれない。

 でも、きっと、本当の親だからこそ、気づいてくれるはずだ。いや、本当の親だからこそ、気づいてくれると信じている。

「ファール」

 そして光。

 身体を使ってしまって、本当にごめんな。せっかくイケメンだったのに、あんまりその強みを活かせてなかったかも。華のセブンティーンが台無しだな。

 けど、人生は楽しいって思わないか?

 段々とお前の記憶が見えるようになり、何があったのかが分かったよ。正直、俺はあんな経験をしたことがなかったから、同じ高校生でも、こんな人生を送っている奴がいるって知って、ただ驚いた。本当に辛かっただろう……。他人から言われると嫌かもしれないけれど、当事者の目線で見える俺だからこそ、少しは心を開いてほしい。

 でもさ、本当に人生って、何があるか分からないよな。

 光にとっての絶望は、いじめられて、自殺。

 俺にとっての絶望は、事故死して、孤独。

 どちらが辛いかは言えないけれど、でも、お互いにそこからまた前を向いていける気がするんだ。まあ、俺を見ていて、苦しそうだと思うかもしれないけどな。

 でもさ、こうやっていつか、最高の瞬間に巡り合える。自分にとって適切な居場所に、そして、素敵な人たちに。だからこそ、きついときほど周りを頼りつつ、それでも希望があると信じて、前を向いていこう。

 死ななければ、こうやってまた挽回のチャンスは回ってくる。最後に逆転できたら、それでいいんだ。

「ファール」

 そして信二、お前ともう一度野球ができて、俺、悔いはないよ。

 正直最初、お前が金丸さんの誘いを断った時、驚いたよ。金丸さんはお前を信頼していたし、何よりお前が甲斐学院に行けば、俺も一緒に行くと思っていたからだ。

 けどすぐに、「お前も一緒に金丸さんぶっ潰すだろ?」って言ってきて、思わず笑ってしまった。

 ああ、でも本当に、いい夢を見られたし、充実した二年間だったな。

 いつも一緒で、話し合い、喧嘩して、冗談を言い合った。正直、一つひとつは覚えていないけれど、身体の中からしっかり詰まった何かを感じる。

 そして何より、お前、いい奴だな。大人だよ、本当に。大切な人の前では、自分の心を押し殺して、相手を優先してしまう。だからこそ、心配になるけどね。

 大学生になると、変な女もいるんじゃないか。そんな奴には、好きにならないと思うけど、気をつけろよ。そして、幸せになれよ。

「ファール」

 最後に……千紗先輩。

 あんまり話せなかったですね。一方的に打ち明かしてごめんなさい。でも、先輩なら分かってくれるだろうし、もう俺は記憶がなくなっていくだけです。そんな俺に構わず、幸せになってください。これは、本当に素直にそう思っています。

 正直、信二と付き合うとは思っていなかったし、それで卑屈になっていた時もありました。けど、そのことは本当に反省しています。勝手に期待して、でも思うようにならずに怒るなんて、最低でした。

 でも、千紗先輩には未来もあるし、幸せになる権利があります。何せ、俺と違い、あなたはまだ生きています。これからも生きていかないといけません。それは、死んだ俺からの、勝手に期待していいことだと思っています。

 正直、あの時の告白の返事を聞けなかったのは心残りです。

 別に付き合うという関係が、俺たちにとって、もう何か特別な意味を持つわけではないとも分かっています。それでも、もう一度、あなたに「好き」と直接伝えたかった。

「ボール!」

 ストレートが高めに外れる。

「うぉぉぉぉぉお~!」

 球場全体からどよめきが起きる。

 もう少しだ。見えてきたな。相手もムキになってきている。ストレートばっかりだ。

 それにしても……ストレートと分かっていても、ついていくだけで精一杯だ。速い。この人、前の俺と同じ、いや、それ以上か?

 すげえな。これは正面から戦ってもきついかもしれない。

 なら、もっとカットして粘らなきゃ。それで……フォアボールも狙いつついくか。そうだ! あの時の少年野球の試合みたいに。

 ん? あれ?

 俺って、カット打法をするタイプだったっけ?


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