二〇一七年八月二十一日。
二学期の始まり。
夏の残り香をまとったまま、私たちはまた教室という名の現実へと押し戻された。
受験まで、あと数ヶ月。
鉛のような空気が、机の間を静かに漂っている。
それでも、誰かが冗談を言えば、ささやかな笑いが起きた。
皆、それぞれの不安をやり過ごす術を覚えはじめている。
最近、ふとした瞬間に視線を感じることが増えた。
クラスでは、また信二と隣の席になった。
事情を知っている周囲は、それとなく気を遣ってくれている。
けれど信二は、変わらず自然体だった。
無理に話しかけるわけでも、距離を置くわけでもない。
ただ、以前と同じように隣に座り、ノートを開き、笑う。
本当に、いい人すぎるくらいだと思う。
心から、彼には幸せになってほしい。
誰かを優しく想える人が、ちゃんと報われる世の中であってほしいと思った。
休み時間。
机に伏せかけていた私たちのもとに、ぞろぞろと男子たちが押し寄せてきた。
松田君、須賀君、そしてその仲間たち。
まるでコントのはじまりのような、にぎやかな登場。
「で、さ。お前ら、どうすんの?」
松田君がわざとらしく肩を揺らしながら言う。
「……何が?」
瑠璃が怪訝そうに問い返すと、須賀君が両手を広げ、大げさなジェスチャーを交えて叫んだ。
「花火大会だよ! 今週末の、石和のやつ!」
ああ、そういえば──。
頭の隅に追いやられていた予定が、不意に浮かび上がる。
それにしても、彼らは本当に楽しそうだ。
毎日が舞台みたいで、見ているこちらが少しだけ羨ましくなる。
「特に行く予定はないかな」
瑠璃が肩をすくめると、須賀君は目を丸くした。
「ええ!? 山見さんがそれは意外だなぁ」
そして、今度は信二の方へ身を乗り出す。
「で、そちらは?」
「俺は野球部の連中と行くよ」
その答えに、松田君が何かを待っていたかのように声を張る。
「そーかそーか。お前には大切なベースボールファミリーがいるもんなぁ! いや~、もし暇なら俺たちと回ろうぜって誘おうと思ってたのに~!」
「そうなんか、すまんな」
信二があっさりと笑って返すと、男子たちは満足そうに笑いながら去っていった。
「あ、今週末、石和の花火大会だったね」
ぽつりと呟くと、瑠璃が呆れたように眉を上げる。
「マジで? 千沙ってそういうとこ、ほんと適当だよね」
「ごめん、ごめん、完全に忘れてた」
私が苦笑すると、彼女もつられて笑った。
「私は吹部の子たちと行こうかな。千沙はどうするの?」
問いかけられた瞬間、視線が自然と隣に向いた。
信二は、それに気づいていた。
軽く肩をすくめ、笑みを浮かべる。
「おい、こっち見るなって。……千沙、せっかくだし大気を誘えば? なかなかいい思い出になると思うぜ?」
その言葉に、瑠璃が私を見て、力強く頷く。
私はその顔を見つめながら、心の中で何度も「ありがとう」と繰り返していた。
──やっぱり、信二って、いい奴だな。
その日の午後、朱雀会館には、演奏以上に深い静けさが満ちていた。
私たちは再び、曲の解釈やイメージのすり合わせに取り組んでいた。
西関東大会を目前に控えたこの時期に、それが最優先の課題かと問われれば、きっと違う。
けれど、あの日、渋谷で聴いた音が、私たちの中の何かを明確に変えてしまった。
ただ譜面を正しくなぞるだけでは足りない。音には、言葉では説明しきれない情感や意志が宿る。
それを知ってしまった今、私たちは目を逸らすことができなかった。
妥協せず、真正面から向き合うこと。それが、あの感動に対する唯一の応答だと思った。
けれど——。
どこかに微かな綻びがあった。
特に三年生の空気には、集中しきれない揺らぎのようなものが漂っていた。
それを察したのだろう。顧問の土橋先生は「一度、三年生だけで話し合ってきなさい」とだけ言って、私たちを朱雀会館二階。普段は合宿場として使われる、和室へ送り出した。
「……みんな、正直、たるんでると思う」
静寂を破ったのは、瑞希の言葉だった。
いつもと変わらぬ、冷静で誠実な声色。けれど、その裏には焦りとも苛立ちともつかぬ感情が滲んでいた。
「県大会の後、甲子園もあり、その上で今となっている。もちろん、上に行けたことは悲願であり、演奏自体もよくなってきている。けど、さらに良くしようという想いというか、姿勢が感じにくい」
いつもなら、瑞希の言うことに皆が納得して従ってきた。
しかし今日は、少し違うような気がした。
明らかに空気感が違う。その言葉が重く響く中で、和室の空気がぴんと張り詰めたように感じられた。
「ちょっといい?」
一人の部員が手を挙げながら、発言する。
「もちろん、そういう空気感は感じていたし、瑞希たちが必死にその空気感を変えようとしてくれているのは分かる。けどさ、これ以上何がいるの?」
しんと静まり返った和室に、その言葉が鋭く響いた。
案外その意見に納得している人も多いようで、頷いている部員がちらほら見受けられた。
「私たち、もちろん今まで努力してきたし、頑張ってきた。けどさ。もう良くない? 瑞希とかは音大行くかもしれないけど、ここにいる大半は国公立とか、私立の受験を控えている。正直、練習も大切だけど、それ以上に受験勉強の方を大切にしたい。これからの人生が掛かっているもん」
静寂が、和室の畳を這い、隅々まで染み渡った。
その正しさが、残酷なほどにまっすぐで、私の胸を鋭く貫いた。
反論できる余地がなかった。
だけど——。
「なら、何で県大会の後に引退しなかったの? もちろん勉強が大切なことも分かるし、みんなが難しい大学に受験することも知っている。けどさ、今部活動で、そして県の代表として西関東大会に出場するなら、真剣に、そしてできるところまで最高の演奏を目指すのが普通じゃないの? 土橋先生が言っていた通り、記念で出場するのなら、それは他の学校にも失礼だと思う」
瑞希の言葉が鋭く、そして感情的に響く。
正論だと思うけど、強すぎて和室の空気がさらに重くなった。
正論と正論がぶつかり合う、その火花が目に見えるようだった。
すると、違う部員がポツリと呟いた。
「それは、瑞希が誰よりも部活に思い入れがあるからでしょ。みんながみんな、そうじゃないし」
一瞬、空気が凍った。
その言葉の意味を、発した本人もすぐに理解したのだろう。
しまった、と目に浮かべた後悔の色が、どうしても拭いきれなかった。
「みんながみんな、部活に思い入れがあるわけじゃない」
それは理解しているし、皆も理解しているだろう。
でも、あくまでも暗黙の了解で、触れてはいけず、皆思い入れがあると信じているからこそ、信頼し、努力して、部活動を続けてこられたこともある。
その根本的な部分を否定する、いや、正しくはあるが、でも、言ってはいけない言葉であった。
瑞希は何かを言いかけた。
けれど、その唇から言葉がこぼれることはなかった。
黙ったまま、静かに立ち上がる。
そしてそのまま、何も言わずに、和室を出ていった。
背中を見送る時間が、やけに長く感じられた。
私はふと、立ち上がる。気づけば体が勝手に動いていた。
あの背中を、追いかけずにはいられなかった。
「瑞希、ちょっと待って」
南校舎の裏手、家庭科室の奥に、小さな雑木林が広がっている。
瑞希はその林へ向かって、逃げるように駆けだし、やがて足を止めた。
私も少し遅れて、その背中に追いつく。
「あはは……ごめんね」
瑞希の声はかすかに震えていた。振り向かず、ただ私の足音が止まるのを待って、そう呟く。
私は、すぐそばまで歩み寄りながらも、彼女の顔を覗きこむことはしなかった。
ただ、静かにその声に耳を傾けた。
「ううん、謝らなくていいよ」
言葉は、自分でも驚くほど落ち着いていて、きっと瑞希が想像しているよりも穏やかに響いた。
それでも、瑞希の胸の奥で、何かが小さく震えながら動き出すのを、私は確かに感じていた。
「でも、私、わかってるんだよ……。本当は、自分が一番悪いって、気づいてた。でも、どうしても気持ちが抑えきれなくて、思わず言っちゃった。みんなの言うことも、間違いじゃないんだと思う。私が一人で、無理に押し付けてたんだよね。ずっと」
瑞希は、ゆっくりと言葉を紡いでいった。その一つ一つに、何度も心の中で繰り返した痛みや悔いが、滲み出しているのがわかった。震えた声に、私はしばらく黙っていた。
「でも、気づいても、やっぱり心の中で納得できなかった。県大会が終わった後も、『これでいいんだ』って、何度も自分に言い聞かせてきたんだけど、プロの演奏を聴いた時、どうしても気持ちが揺れちゃったんだ。もっと、みんなでできるんじゃないかなって。こんな自分、ほんとうにエゴだよね」
瑞希の心の奥底から、あふれ出すように言葉が続く。その声のひとつひとつが、私の中に深く染み入っていくのがわかった。いつもの瑞希の強さが、今はどこか子どもっぽく、そしてとても純粋に感じられた。私はただ、無言で彼女の横顔を見つめる。
「実は、私は中学時代、元々、福岡の高校から推薦をもらってたんだ。でも、中学三年の西関東大会で、どうしても勝てなくて。それがすごくショックで、部長としてどうしても全国に行きたくて、特に幼馴染が副部長だったから、二人で頑張ろうって。でも、だんだんと自分のペースで引っ張るようになって、みんなの意見を無視していた。焦っていたんだよ。私、どうしても負けたくなくて、相手が傷ついていることに気づけなかった」
瑞希の言葉は、少しずつ過去へと遡っていった。それは、まるで心の中に閉じ込めていた記憶を一つ一つ引き出すようだった。彼女が背負ってきたもの、痛み、悔しさ。それらが、今、目の前で語られていることが信じられないような気がした。
「大会が終わると、すべてがなくなった。同級生たちからは冷たい目で見られ、幼馴染とも関係が壊れて。あの時、彼女に言われた言葉は、今でも忘れられない。『あんた、最低だよ』って。あの瞬間、自分がどれほど愚かだったのか、痛いほどわかった。だから、もうこんなことは二度と繰り返したくなくて。自分のペースで、誰にも迷惑をかけずに、ただ演奏に集中できる学校を選んだんだ。周りの目なんて、どうでもよかった。ただ、自分だけがそれでいいと思って」
その言葉が、瑞希の胸の内に深く根ざしていることを感じた。彼女が何度も繰り返し思い続けた、自分に対する許しがたさ。必死に自分を守ろうとしたその姿が、切なく、胸に迫った。
「でも、この学校に来て、吹部で千沙と出会った時、驚いたんだ。中学の大会で、千沙がすごく印象に残っていたから。だから、何か感じるものがあって……この子がいれば、もっと上を目指せるんじゃないかって、そう思ったんだ」
その言葉に、私の心は一瞬、胸を打たれた。瑞希がそんなふうに私を見ていてくれたことが、少し照れくさいけれど、何か誇らしい気持ちを呼び起こさせた。
「でも、私、どうしても不器用で。あの中学の出来事があってから、どう千沙と接していいのか、分からなかった。それで、強引にソロコンの伴奏を頼んだんだ。でも、あの練習、すごく楽しかった。私たち、こんなに真剣に向き合ったのは初めてだった。それが、すごく面白かったんだよ。千沙って、意外と強引で、自分の意見を曲げないけれど、それがまた面白い」
瑞希の笑顔が一瞬、浮かんだ。それが、私にとっても新たな意味を持つものに感じられた。あの時、私たちの間にあった熱い思いが、瑞希にとってどれほど大きな意味を持っていたのか、改めて思い知った。
「だけど、やっぱり情熱を持って頑張ろうとしても、失敗が待っているんだって、気づいてしまった。二年生のコンクールの出来事や、千沙が落ち込んだ時。私も力になれなかった。情熱を持ち続けることが、必ずしも成功に繋がるわけじゃない。そんな現実を、痛いほど知ってしまったんだ」
その言葉に、瑞希の深い葛藤がにじみ出ていた。情熱が必ずしも報われない。その厳しさに、彼女はどうしようもなく傷ついていたのだろう。
「でも……それでも。うん……。やっぱり諦められない。プロの演奏も、甲子園で吹いた千沙のソロも、私の心に火をつけてくれた。
みんなの気持ちは分かる。大学受験もあるし、上の大会に出られる達成感も分かる。でも、高校三年生って、もう二度と来ないんだ。今のメンバーでできるのも、これが最後なんだから、やっぱり前を向いて、全力で頑張りたい」
瑞希の言葉に、私は何も言えなかった。ただ、心の中でその決意を感じ取り、強く胸が締め付けられた。どんなに辛くても、どんなに難しくても、最後まで全力で走り抜ける。それが私たちの青春だと、瑞希の言葉が改めて思い出させてくれた。