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二〇一七年九月八日 その3

 夕食を終えたあと、私たちは温泉へ向かった。

 ここは群馬県、川原湯温泉。草津にもほど近いこの地は、古くから湯治場として知られ、多くの旅人たちを癒してきたという。

 けれど今、その温泉街は、八ッ場ダムの建設によって、新たな土地へと移されていた。

 新たに建てられた宿は、どこかモダンな装いを纏いながらも、懐かしさを失ってはいなかった。

 洗練と伝統。その間に立つ空間が、まるで新しい時代への祈りのようにも思えた。

 第二甲府高校の卒業生が、この宿の若旦那と友人だという。

 その縁あって、きっと高価なはずのこの宿に、私たち部員全員が泊まることが許されたのだった。

 六十人を超える大所帯。

 本来は宴会場である広間に布団を敷き詰め、ぎゅうぎゅうと肩を寄せ合いながら、夜は更けていった。

 それでも、誰もが楽しそうだった。

 笑い声が、障子の隙間から、夜の冷えた空へと漏れていった。

 けれど私は、どうしても眠ることができなかった。

 胸の奥で、何かが静かにざわめいている。

 じっとしていることに耐えきれず、そっと布団を抜け出して外に出た。

 ふと振り返ると、瑞希が、何も言わずについてきていた。

「寝られないね。大会前だもん」

 瑞希は苦笑いを浮かべながら言った。私と同じ気持ちなのだと、すぐにわかった。

 あの日以来、瑞希との距離はぐっと縮まった。

 もともと彼女は、私のことをひそかに尊敬してくれていたらしい。

 本当は、ずっと前から仲良くなりたかったのだと、ぽつりと打ち明けてくれた。

 ただ、彼女は少し不器用で、三年かけて、ようやくこんなふうに、肩を並べて歩けるようになった。

 そのことが嬉しくて、なんだか無性に笑えてしまった。

 どれだけ不器用なんだろう、と。

 私たちはそっと宿を抜け出し、夜の空気の中へ滑り込んだ。

 澄んだ冷気が頬を撫でる。もうこのあたりには、秋の気配が忍び寄っているらしい。

 周囲には、ダム建設の名残が静かに横たわっていた。

 日中は作業音に満ちていたこの場所も、夜にはすっかり音を失い、ただ月明かりだけが、淡く地面を照らしていた。

 遠く、八ッ場大橋の白い輪郭が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

「この静けさ、なんだか不思議だね」

 瑞希が、ぽつりとつぶやいた。

「昼間の喧騒が嘘みたい」

「本当に……」

 しばらく黙って歩いたあと、瑞希がまた口を開いた。

「でも……この町の人たちにとっては、きっと、いろんな想いがあるんだろうね」

 チェックインの時、若旦那が話してくれた町の歴史を思い出す。

 目に映る静かな景色が、じわりと胸に染みこんできた。

 二人で夜道を歩きながら、瑞希はふと思い出したように、バスの中で悩んでいた楽曲の話を切り出した。

「ねえ、第四楽章のナタリーの葬儀曲……。千沙、どう思う?」

「うーん……」

 私は考え込む。

「流れとして、第四楽章が葬儀の場面で、天国に行く娘を見送ってるって考え方もあるけど……。

 でも、もしそれだけなら、『息子のための楽章』っていう言い方は、しないよね。

 第三楽章でナタリーとの別れを描いたばかりなのに、また葬儀曲を重ねる意味が、引っかかるんだよね」

 私の迷いに、瑞希はそっと答えた。

「……確か、あの曲が完成したすぐ後に、作曲者の息子さんが生まれたんだよ」

「え、本当に?」

「詳しくは分からないけどね。でも……おそらく、亡くなった娘と、これから生まれてくる息子。

 両方への想いを、あの楽章に込めたんだと思う」

 瑞希の言葉が、胸の奥にするりと入り込んだ。

 片方だけじゃない。

 過去も、未来も。

 ふたつの想いを、同じ楽章に。

 瑞希は続ける。

「たとえば、今日、若旦那が話してくれたことも同じじゃないかな。

 大切にしてきた土地が、ダム湖に沈む。

 それって、本当に、言葉にならないくらい、苦しいことだと思う」

「うん……私なら、きっと耐えられない」

「でも――」

 瑞希はそっと言葉を重ねた。

「それでも、この町の人たちは前を向いている。

 大切なものを胸に抱いたまま、それでも未来へ進もうとしてる。

 きっと、第四楽章も、そういうメッセージなんだと思う」

 瑞希の言葉に、ふっと、心の奥の扉が開かれるのを感じた。

 思考が急速に深まり、指先がまだ触れたことのない何かに、そっと届きそうな感覚が走る。

「……そうか。確かに、そうかもしれない」

 私は小さくうなずいた。

「息子の誕生はあるけれど、娘のことも、忘れない。でも……それだと、第三楽章と少し重なってしまう気もするんだ」

「うん、分かるよ。さすが千紗、強情だね」

 瑞希はやわらかく笑った。

「ごめん……でも、なんだろう」

 私は夜空を仰ぎながら言った。

「作曲者自身の視点じゃなくて、娘の視点から考えてみたら……違う景色が見えるかもしれない。これは――メッセージなんだと思う」

「メッセージ?」

 瑞希が首を傾げた。

「うん。第三楽章は、作曲者が”心の中”で娘と別れを告げる。

 でも、第四楽章は違う。

 天国にいる娘に向かって、『君のことは忘れない。安心していいんだよ。私たちはちゃんと前を向いて生きていくから』って――。

 その想いを、音楽という歌にして、伝えようとしたんだと思う。

 だからこそ、葬儀曲なんだよ。

 悲しみじゃなくて、未来への祈りとして、奏でられているんだ」

「……確かに」

 瑞希もまた、静かにうなずいた。

 その瞬間、胸の奥で、小さな後悔が生まれるのを感じた。

 今まで私は、土橋のアドバイスに導かれ、大気君と再び出会えたことを、あたかも第四楽章の歓喜のように思っていた。

 けれど、それは違ったのかもしれない。

 あれは、思い出のような、閉じた世界のなかの、かすかな光だった。

 夢のように儚く、第三楽章に近いものだったのかもしれない。

 ――その先にあるべきもの。

 本当の第四楽章とは、別れを受け入れ、その悲しみを抱えながら、それでも未来へ進む喜びだ。

 生きている者にだけ許される、未来へ歩む力。

 哀しみと希望を、どちらもたずさえて、進んでいくこと。

 私たちが奏でるべき「喜び」とは、その姿にこそ宿るのだ――。

 ようやく、私はその答えに、ほんの少しだけ触れることができた気がした。

 けれど。

 今の私に、それを表現できるのだろうか。

 そしてそれは、自らの言葉で、大気君に「別れ」を伝えることになる。

 胸の奥に、薄い不安の膜が広がっていく。

 その時。

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 瑠璃からのメッセージだった。

 三人で作った小さなグループに、短く、呼びかけるように書かれている。

『ちょっと、千紗と瑞希、どこにいるの?』

 私はスマホの画面を瑞希に見せた。

 瑞希は、肩をすくめて苦笑いする。

 気がつけば、私たちは川原湯温泉駅の近くまで来ていた。

 秋の夜の冷気が、そっと肌を撫でていった。



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