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二〇一七年九月九日 その1

 二〇一七年九月九日。

 高崎線の車内。

 窓の外、群馬の田園風景が、秋の光に滲みながら流れ去っていく。

「うぉ、初群馬だ」

 大気が、子供のように目を輝かせて車窓を覗き込む。

 信二は、そんな無邪気な友を見て、ふっと笑った。

 けれど、その笑みの奥には、消しきれない緊張があった。

 今日は、吹奏楽部の西関東大会当日だった。

「なあ、新体制始まったばっかりだろ。部活、休んで来て大丈夫かよ」

 軽く窘めるように言うと、大気は肩をすくめてみせた。

「ちゃんと、監督に許可取ったってば」

「へぇ、意外と素直だな。……なんて話したんだよ」

「全部」

 その一言に、信二の呼吸が一瞬止まった。

「全部って……どういう意味だよ」

 大気は、流れる田園をぼんやり見つめながら、低く答えた。

「もう、分かってるんだ。時間が、あんまり残ってないってことも」

 車内に、アナウンスが響く。

『次は高崎~、高崎~』

 けれど、信二の耳にはもう、その声も遠かった。

「お前、それ……」

「甲子園の前からだよ。少しずつ、記憶が混ざり始めた。

 でも、千沙先輩のおかげで戻ったはずだった。が、やっぱり駄目だったんだ。

 最近じゃ、中学のことも、去年の夏のことも、ぼんやりしてて。代わりに、工藤光の記憶が流れ込んでくる。

 意識のない時間も、どんどん増えてきた。頭の中、ぐちゃぐちゃだよ」

 言葉を飲み込むようにして、信二は俯いた。

 それでも、大気は、どこか淡々と続ける。

「俺は――もともと異物だ。この体は、工藤光のものだから。

 光の家族を見てると、どうしても思うんだ。

 ……申し訳ないって」

 外の風景が、秋の陽に白く揺らぐ。

 大気はそれを見つめながら、ぽつりと言った。

「母親は、多分、気づいてる。それでも、俺を息子みたいに大事にしてくれる。

 だからこそ、だ。

 そろそろ……返さないといけないと思った」

 大気の声は、冷静だった。

 だからこそ、信二の胸に、どうしようもない痛みを残した。

「俺が、輿水大気としていられるうちに、全部やりきろうと思った。

 監督にも言ったよ。事故は監督のせいじゃないし、俺は――幸せだったって」

 信二の脳裏に浮かんだのは、千沙の顔だった。

 彼女は、これを知っているのか。

 怒りとも焦りともつかない感情に突き動かされ、思わず声を荒げた。

「千沙には? 言ったのか、それ」

 大気は静かに頷いた。

「うん。祭りの夜に、ちゃんと話した。

 千沙先輩も、多分、うすうす気づいていたみたいだった。

 本当は……残って欲しいって思ってるはずなのに、それでも、俺の気持ちを尊重してくれた。

 『他人に迷惑かけて、自分たちのエゴを通すのは違うよね』って、そう言って。

 ……やっぱり、すごい人だよな、千沙先輩は」

 大気は、ふっと笑った。

 けれど、その笑顔の奥に、微かな不安の翳りが滲んでいた。

『次は、新前橋~新前橋~』

 アナウンスに合わせるように、電車は減速を始める。

 信二は、大気の横顔を見つめた。

 そして、ゆっくりと覚悟を決めるように、頷いた。

「……分かった。

 でも、最後まで、俺はお前らの味方だからな」

 その言葉に、大気はようやく安堵の色を浮かべ、再び窓の外へ目を向けた。

 風景が流れる。

 季節が、過ぎていく。

 二人の会話は、静かに、途切れた。



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