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二〇一七年九月九日 その2

「いやー、緊張しますね」

 隣の雪ちゃんがぶるぶると震えている。普段は頼りにしている雪ちゃんだが、こういう場面では緊張しやすいのが、なんだか可愛らしい。それに、意外にも熊谷君まで顔を引きつらせているのを見て、私は小さく笑ってしまった。

 ここ、群馬県民会館が今日の西関東大会の舞台。午前の部が終わり、午後の部が静かに始まろうとしている。

「まあまあ、大丈夫よ」

 自分自身に言い聞かせるように、雪ちゃんを励ますが、私だって内心はかなり緊張している。

 チューニング室の中で、最後の音合わせを終えると、土橋が前に立った。その瞬間、誰もが演奏を止め、自然と注目が集まる。

「今日の演奏についてだが……」

 いつも通りの淡々とした口調だが、少し違った何かを感じさせた。

「よく、『音楽だから、音を楽しもう』って言うけど、俺は正直、それは無理だと思っている」

 突然の発言に、一同は少し驚く。

「特に大会ってそういうものだ。緊張もプレッシャーもある。だからこそ、『楽しむ』じゃなくて、演奏に没頭してくれ。それがいつか振り返った時、楽しかったと思える瞬間につながるから」

 土橋にしては珍しい、感情のこもった言葉だった。

「そして、三年生」

 その言葉に、三年生の背筋が自然と伸びる。

「この三年間、苦しかったな」

 土橋の声は静かで、それでも深いものがあった。

「西関東大会に行けたのも、この一回だけ。それは俺自身の力不足だったかもしれない。でも、お前たちは最後まで必死に食らいついてきてくれた。本当に嬉しかった。ありがとう」

 そう言って、土橋が頭を下げる。

 その姿を見た瞬間、数人の三年生が涙をこぼしているのに気付いた。

 教師という仕事は、きっと仮面を被ることも多いのだろう。言いたいことが言えなかったり、生徒に誤解され、嫌われたりすることもあるだろう。

 それでも、生徒を導こうとする姿に、私は改めて感謝の気持ちを抱いた。

 土橋は、不器用ながらも私たちを支えてくれる存在だ。

「時間です」

 係員の声が響き、私たちは一斉に立ち上がる。

 これが最後のステージだ。

「さあ、フィナーレを飾ろう」

 足を一歩踏み出すたび、胸の鼓動が高鳴る。舞台袖に向かい、緞帳の向こうから聞こえる静寂に耳を澄ませる。いよいよだ。最後まで、全力で演奏しよう。





「次だな」

「ああ」

 信二と大気は、静かに席に座りながら、互いに言葉少なに頷き合う。

 昼食を食べ損ねたことなど、今はどうでも良かった。目の前に広がる舞台。これから行われる、千沙たちの演奏。

 それだけが二人の関心事だった。

 舞台の照明が落ちる。暗闇に包まれた瞬間、会場全体が一瞬にして沈黙する。

 やがて、第二甲府高校吹奏楽部が静かに入場を始める。その歩みは、まるで時を刻むように整然としていて、どこか荘厳ささえ漂っていた。

 白いライトが一筋、ステージ上にスポットを落とし、整然と並ぶ彼らの姿が、まるで影絵のように浮かび上がる。

 その中に、確かに千沙の姿があった。

 信二は、その瞬間、目を奪われた。心の中で何かが揺さぶられるような感覚を覚える。彼女は、今、どんな思いを胸に抱えているのだろうか。

 ちらりと隣の大気を見ると、彼はただ、前をじっと見据えているだけだった。

 普段ならば、何か一言、冗談でも言いそうなものだが、今日はその沈黙が、信二の胸に小さな不安を芽生えさせる。

 けれども、目を下に落とすと、そこで不思議な光景が目に入った。

 大気は、朱雀祭のリストバンドを握りしめていた。その手は小さく震えているようにも見える。まるで何かを祈るように。

 それでも不思議だったのは、そのリストバンドは、自分のクラスで使われたもの。大気のクラスの物ではなかった。

 アナウンスが、静かな空気を裂くように響き渡る。その声が、心臓の鼓動と重なり、会場はさらに静寂に包まれていく。

 指揮者がタクトを掲げると、まるで空気が一瞬で変わったかのように、千沙たちの演奏が始まる。



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