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第一楽章『レント-アレグロ・リトミーコ』

 課題曲が終わり、自由曲の演奏が静かに幕を開けた。

 土橋の指揮棒が鋭く振り下ろされる。瞬間、ティンパニーの深く重い響きが空間を震わせる。第一楽章――『レント-アレグロ・リトミーコ』。

 その音楽は、愛する者を喪った悲劇を描いていた。

 金管と木管が渦を巻くように交錯し、絶望そのもののような音色を紡ぎ出す。まるで悪夢の迷宮に迷い込み、出口を失ったかのような錯覚に囚われる。

 低音が地の底から這い上がり、会場全体を満たす。振動は胸の奥深くにまで到達し、理屈ではない、根源的な恐れを呼び覚ました。

 私は、抗う間もなく、過去へと引き戻される。

 あの、燃えるような夕焼け。

 こんなにも美しい空を見たのは、いつ以来だったろう。

 大気君とのデート――偶然という名の奇跡が、忙しい日々の狭間に与えてくれた、たった一度の贈り物。

 私はその時、彼に告白の返事をしなければならなかった。

 惹かれていた。確かに。

 けれど、部活、進路、未来への不安……それらが幾重にも心に影を落としていた。

 それでも大気君は、そんな私を責めることなく、ただまっすぐに寄り添ってくれた。

 好意を寄せてくれる人は他にもいたかもしれない。だが、こんなにも優しく、深く、私の不安に向き合ってくれたのは、彼だけだった。

 だからこそ、私は彼に応えたかった。もっと彼の笑顔を見たかった。

 ……叶わなかった。

 信二からの電話。

 スマホ越しに聞こえた、あの言葉。

 耳に焼きついたあの声。

 理解した瞬間、胸の奥からせり上がってきた不安が、現実となって私を切り裂いた。

 病室で見た大気君の、動かない手。

「なんで……なんで、なんで……!」

 低音楽器の波動が、腹の底をえぐるように響き渡る。

 音の圧力が胸を裂き、内に秘めていた痛みを暴き出す。

 大気君の死。

 その衝撃と共に、私は、自分がいかに臆病で、無力だったかを思い知らされた。

 返事ひとつさえ、伝えられなかった自分。

 そのことが、許せなかった。

 もし、あの日――私が彼をカフェに誘わなければ。

 もし、あの時――違う選択をしていれば。

 彼は、まだ生きていたのではないか。

 そんな罪悪感が、胸の奥でどす黒く渦巻く。

 その重さに、私は、耐えきれなかった。

 ティンパニーの力強いリズムが、一打一打、命の鼓動をなぞるように打ち鳴らされる。

 それは、終わりの到来を告げる死の鐘。

 私が経験した「絶望」と、あまりに酷似した音。

 やがて、音楽は静寂の淵に吸い込まれる。

 第一楽章が、そっと幕を下ろした。



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