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第三楽章『メスト「ナタリーのために」』

 パーカッションが、夜空にそっと火を灯すように、神秘的なメロディーを刻み始めた。

 それは、瞬間ごとに強く輝く星々の脈動であり、遠い国から微かに届く祈りの囁きのようでもあった。

 第三楽章――『メスト「ナタリーのために」』。

 亡き娘が、もしも生きていたなら――。

 作曲者の祈りが紡いだ旋律は、過ぎ去った日々の扉を、そっと、けれど確かに開いていく。

 音楽は、夢のような記憶を一つひとつ呼び覚まし、私の中で失われたものたちにもう一度、息を吹き込んだ。

 あの日。

 大気君を亡くしたあの日、私の世界は、音も色も失った。

 涙を流し続けても、周囲はただ白く霞み、何もかもが空白に沈んでいった。

 それでも時は、否応なく流れた。

 私は、壊れた心の破片を拾い集めるようにして、静かに、ゆっくりと、歩き始めた。

 その手を引いてくれたのは、ほかでもない、信二だった。

「そして、夏の日々……」

 脳裏に浮かぶのは、県大会で戦った野球部の記憶。

 汗まみれになり、泥にまみれ、走り、投げ、打った日々。

 その合間に交わした、何気ない言葉。

 球場に響いた笑い声。

 焼けつく太陽の下、胸の奥まで響いた、あの高鳴り。

 すべてが、今でも鮮やかな色を放ちながら、私の中に息づいている。

「甲子園……」

 まさか、あの夢の舞台に、彼らが立つ日が来るなんて。

 信二と大気君。

 中学の頃から、無邪気な目で追い続けた憧れの場所。

 そこにたどり着いた瞬間、彼らはどれほどの歓喜を味わっただろう。

 何より、二人が肩を叩き合い、笑いながら泣いた、あの瞬間。

 その笑顔は、今も私の宝物だ。

 音楽が、静かな木管のさざめきから、次第に力強い金管の波へと変わる。

 第三楽章は、静寂の海からゆっくりとうねりを上げ、深く、深く、私の胸に届いてくる。

 大気君との日々は、失われた時間を取り戻すかのような、奇跡だった。

 甲子園での再会。

 清里で見上げた、どこまでも広がる高原の蒼。

 愛宕山のプラネタリウムで、無数の星々に包まれた夜。

 そして――何より、夏祭りの灯りの下で笑い合った、あの夜。

 提灯の温もりに照らされた笑顔。

 花火の轟きに負けぬほど弾けた笑い声。

 その一瞬一瞬が、色鮮やかに胸に刻まれ、永遠に手放したくない宝物となった。

 けれど、心の奥では、私はずっと知っていた。

「大気君には、タイムリミットがある」

 言葉にしなくても、わかっていた。

 彼がふと遠くを見つめる時間が増えたこと。

 言葉に詰まる瞬間が、そっと間に挟まるようになったこと。

 去年の思い出を語ることさえ、いつしか減っていた。

 大気君は、何も言わなかった。

 ただ、私を信じて、沈黙を預けてくれた。

 私もまた、無言のうちにそのすべてを受け取っていた。

 あの日――。

 花火の光の中で、彼はぽつりとつぶやいた。

「先輩……そろそろ、身体を光に返してやりたい」

 その言葉は、不思議なほど静かに私の胸に落ちた。

 涙も、動揺もなかった。

 私はただ、黙って、深く頷いた。

 ウインドオーケストラがうねりを上げ、第三楽章のクライマックスが押し寄せる。

 金管と木管が織り成す壮麗な波が、会場を、私を、包み込む。

 その響きの中で、私は揺れる心を抱えながら、ようやくひとつの答えに辿り着いた。

「何かを失うことで、何かを得る。それが、人生なのだと」

 大気君が私にくれたすべて。

 そのぬくもりのおかげで、私は、また歩き出すことができる。

 だから、今、私は心の底から言える。

 ――もう、大丈夫だよ。

「大気君、本当にありがとう。心から、ありがとう。大好きだった。……でも、もう大丈夫だから。安心してね」

 音楽は、やがて静かに、穏やかに、消え入る。

 盛り上がりが遠ざかり、音の海が静寂へと溶けていく。

 その余韻は深く、静かに私の胸に降り積もり、大気君との最後の思い出に、そっと、そっと、別れを告げた。



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