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第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』

 瑠璃先輩たちのホルンが、会場の空気を震わせた。

 その音は、凍てついた冬を静かに溶かし、やがて無限に広がる春の息吹へと変わっていく。

 音のひとしずくが、冷たい大気を撫で、どこまでもあたたかな光を放ちながら、世界を染め上げる。

 第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』。

 木管と金管が旋律を手渡し合いながら、命を繋ぐように、幸せの波を生み出していく。

 音楽がひときわ明るさを帯びるたび、心の奥に眠っていた希望が、そっと呼び覚まされる。

 ――まだ、ここに在っていいのだと。

 トランペットの音が胸を打つ。

 それはあまりにも鮮やかで、力強かった。

 まるで、先輩自身の生き様が、そのまま音になったかのように。

 絶望を背負いながらも、ひとつひとつ乗り越えてきた、その重みと優しさが、響きとなって、語りかけてくる。

 気づけば、尊敬と、それを超えた温かい何かが、静かに胸の中に広がっていた。

「まさに、集大成だな……」

 大気は、千沙先輩の真摯な眼差しを見つめた。

 その瞳には、一片の迷いもない。

 音楽に、心のすべてを捧げた者だけが持つ静かなひかりが、確かに宿っていた。

 その姿は、大気の胸の奥深くに、そっと、しかし確かに刻まれていく。

「俺って、本当に、すごく幸運だよな」

 死んだはずの命が、こうして豊かに蘇った。

 それだけでも、奇跡だった。

 けれど、蘇った先に待っていたのは、決して甘くない現実だった。

 居場所を探して、心の空白を埋めるまでに、どれほどの孤独と痛みを抱えただろう。

 死者に、本来この世に居場所はない。

 どれだけ周囲が手を伸ばしてくれても、時間は残酷に、死者の存在を薄れさせていく。その冷たさを知るたび、大気は幾度となく、押し潰されそうになった。

 それでも、手放さなかった。

 痛みに打たれながら、少しずつ、少しずつ、自分と向き合おうとした。

 朝のランニングで、生前の家の前を通るようになった。

 最初は、ただ足早に通り過ぎるだけだった。

 けれど、ある朝、母がふと気づき、声をかけてくれた。

 それをきっかけに、ほんの少しずつ、言葉を交わすようになった。

「甲子園から帰った後、母がこう言ったんだ。『もし、良かったら』って」

 あの日、静かに生前の家に足を踏み入れた。

 靴音さえも憚るように、仏壇の前に立つ。

 そこにあったのは、自分の写真だった。

 ――死んだのだ、と、改めて胸を貫く現実。

 仏壇に供えられた白球、仲間たちの寄せ書き。

 すべてが、目を背けたくなるほど眩しかった。

 特に、摘みたての小さな花束。

 その素朴な香りに、愛されていた日々が堰を切ったように押し寄せ、気づけば、涙が止まらなかった。

 母は驚き、戸惑いながら、それでも、優しく笑ってくれた。

「お帰りなさい」

 ただ、それだけ。

 けれど、その一言が、ありったけのひかりとなって、深く、深く、心に沁みていった。

 楽章は中盤へと進む。

 ウィンドオーケストラの音の奔流に、満ちるものは、ただ純粋な感動だった。

 ――あの日、先輩に伝えた。

 光に、この身体を返したいと。

 生きる歓びを知ったからこそ、この胸のどこかに、今も静かに座している光に、それを味わってもらいたいと思った。たとえ、それが独りよがりだとしても。神様と交わした、ささやかな約束のためにも。そして、それ以上に、素直な俺自身の気持ちとして。

 俺はもう、死者だ。

 変えようもない事実。

 けれど、光は違う。

 あたたかな体温と、確かな未来と、愛してくれる人たちに囲まれて、今を生きている。

 だから、この手に握っていた小さなバトンを、そっと、渡したい。

 送り出したい。

 そう、心から願った。

 けれど、それは、千紗先輩との別れを意味する。

 だから、怖かった。

 ほんの少し、怖かった。

 けれど、先輩は何も言わず、ただ静かに、すべてを受け止めてくれた。

 馬鹿だなあ、俺。

 そんなふうに苦笑しながら、それでも、そのまっすぐな強さに、改めて心を奪われる。

 ――また、惚れてしまった。

「あはは、良くないよな……」

 生への未練はない。

 本当に、幸せだった。

 濃密で、奇跡のような時間だった。

 まるで、アディショナルタイムのように、神様がそっと与えてくれた贈り物だった。

 未練は、ない。

 ないはずだった。

 それでも、大好きな人が、まだこの世界にいる――。

 その事実だけが、ほんの少しだけ、まだもう少し、と思わせる。

 こんなに、惜しいと思える時間を持てたこと。

 それが、何よりの幸福だったのだと、今なら分かる。

 ふと、視線を上げると。

 トランペットを吹く千紗先輩の目に、きらりと涙が光っていた。

 その一瞬が、たまらなく愛おしくて、俺はそっと、ふふっと、笑った。

「千紗先輩へ。

 どうしても、最後に伝えたいんです。

 俺は、生き返った後、生まれてきた理由が分からなかった。

 何のために生きてるのかも、ずっと分からなかった。

 でも、また先輩に出会って、隣で笑って、一緒に泣いて、その全部で、やっと分かりました。

 先輩のことが、やっぱ、本当に、本当に、大好きです。

 どんなに苦しくても、どんなに怖くても、先輩が笑ってくれたら、それだけで、全部報われました。

 あったかい声も、まっすぐな瞳も、誰よりも優しい心も、全部、全部、大好きでした。

 俺は、先輩を愛するために生きている。そう思っています。

 もしまた生まれ変わって、またどこかで出会えるなら――今度こそ、もっと長く、ずっと隣にいたい。

 でも、きっと俺は、もうここでお別れです。

 また、生まれ変わりという奇跡は、さすがにないと思います。

 それでも、後悔なんてないんです。

 先輩を好きになれたことが、俺の、命そのものだったから。

 これからも、先輩はきっと、たくさん泣いて、たくさん笑って、たくさん、幸せになってください。

 俺が、空の上……。そうですね、天の川から先輩を見守っています。

 最後まで、大好きでした。

 千紗、ありがとう。じゃあ、またね」

 曲は、ついに最高潮を迎えた。

 ウインドオーケストラ全体がひとつの生命体のように脈打ち、熱を帯びる。

 その中心で、千沙はまっすぐに未来を見据えた。

 揺らぐことのない決意が、胸の奥で静かに燃えている。

「これが最後の演奏。悔いは残さない。この先に待つ、美しい未来のために。そして、大気君のために。絶対に、忘れない」

 千沙の瞳に浮かんだ涙は、もはや悲しみではなかった。

 それは、決別ではなく、受け継ぎの涙。

 過去を抱きしめ、未来へと歩み出す者だけが流せる、強く、優しい涙だった。

 音楽が、静かに、しかし確かに終わりに向かっていく。

 千沙の顔に、自然と笑みが咲く。

 泣きながら、笑っている。

 最後の一音が、会場を満たすと、深い静寂が訪れる。

 その瞬間、大気は、千沙に向かってそっと微笑んだ。

 声にならない声が、空気を震わせる。

 そして千沙も、確かにそれに応えた。

 微笑みながら、まっすぐに。

 迷いも未練もない、ただ確かな、"生きる"という約束をその目に宿して。



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