俺はその要求になんて答えるのが正解なのだろうか。
頭の働きが止まって、視界すら白くなった意識の中で、そんなことを考える。現実に戻ってこれたのは、身を寄せてきたアオの胸の柔らかさを感じてだった。
「ここ図書室」
そういう問題ではないのだけど、真っ先に口を突いたのはここが公共の場であるという指摘だった。人の目がある。だから、そんなことはできないというそんな言い訳。
けれど、頭すら使っていないその場しのぎを、アオはあっさりと躱す。
「ならこっち」
そう言って、俺の手を掴む。
一瞬で場所が飛んだような感覚に面食らう。そうして、誰の目の届かない図書室の物陰に連れてこられて、アオの追い打ちにさらに面食らうことになる。
「キス」
「……や、それはさすがに」
「じゃあ、ちゅー」
「…………なにも変わってないぞ」
ちゅーの発音のために突き出した唇がかわいく、やけに目を引き寄せられるくらいの変化しかなかった。
濡れて、艶のある唇。いかんいかんと頭を振る。俺たちは幼馴染俺たちは幼馴染と言い聞かせるように心の中で唱える。
「よくない」
「でも、誰と会うか教えてくれないのよね?」
「……そうだけど」
「私が付いていくのもダメなのよね?」
「…………そう、ですけど」
背にした窓に追い詰められていく。
俺が誰といつどこで会おうがアオには関係ないだろ、と言えたら早かったのだけど、アオを置いていくのに罪悪感を覚えている時点で強く言い返せない。
「ユイトの交友を否定したいわけじゃない。私に秘密は、……あってほしくないけど、幼馴染だからって隠し事がないなんて思わない。でも、一緒にいられないのは寂しいから。温もりが欲しいって乞うのは……我が儘?」
卑怯な言い回しだ。
攻めて、引いて、願って。
いつから俺の幼馴染は、男を落とす手練手管を持つようになったのだろう。童話に出てくる妖精めいた見た目と合わさると、いっそ魔女と呼んでもいい所業だ。
それが俺だけに発揮していることに安心すればいいのか、それとも、悲しく思うべきなのか。腹部に押し付けられるアオの胸の潰れ方で、より迫った距離を感じながら熱湯から沸き立つ湯気のように熱せられた吐息を零す。
これ以上は超えてはいけないという境界線が、雨風で薄くなる校庭のトラックのように曖昧になっていく。白線を引き直さないといけない。そんなことを日々許容値をズレそうとしてくる幼馴染を前に決意しながら、今日だけは境界線を踏み越える。
「……っ」
――そっと、唇を額に押し付ける。
柔らかさとは無縁な、骨の硬さを感じる感触が唇から伝わってくる。同時に、甘さを感じたのは錯覚だろうか。人の肌が甘いはずなんてないのに、花の蜜に触れたように感じたのは、日頃からアオに抱いているイメージのせいかもしれない。
これで満足か。
そういう余計に意識させるような真似をするなっ、と視線をよりつり強くさせると、アオはため息のような吐息をついた。
「唇がよかったのだけど」
「っ、……できるか」
静謐さが美徳される図書室だというのを忘れて、叫びそうになるのをどうにか堪える。額でもギリギリだったのに、唇なんて検討にすら上がらない。
唇を微かに尖らせ、じとっと横目で不満を刺してくるアオだったが、じわじわと頬を赤くさせて、ゆっくりと頬を緩ませていく。
「そうね、でも。今日はこれで満足しておくわ」
「……2度はないからな?」
「さて、どうでしょう?」
くすくすと鈴を転がすような澄んだ笑い声を上げて、妖精が踊るように機嫌よくステップを踏む。
窓から差し込む陽光に照らされ、花弁が揺れるように水と青の髪が跳ねている。幻想的にも見える舞に、これが見れたなら、とまた境界線が薄くなっていくのを感じた。
■■
「はぁ……」
と、晴れた天気に相反して、口から吐き出される鬱々とした息。緊張から解き放たれた開放感と脱力感に体が
このまま座り込んでしまいたくなるが、アオを説得するのにあんなことまでしたのに、その努力や決意を無に帰すことは耐え難かった。
「相手にも悪いしな」
膝を折りそうになりながらも、どうにか校舎を出る。せっかくだからもう少しだけ勉強していくというアオとは図書室で別れて今は1人だった。
そもそも、勉強会というのが目的っぽかったアオにこれ以上のテスト勉強が必要なのかは疑問だが、本人がやる気になっているなら止める必要もない。
やや疑問はありながらも、久しぶりの1人に羽を伸ばしながら校門を抜ける。アパートへの帰路とは反対方向に歩き出す。
車でもぶつかったのか、ぐにゃりと曲がったガードパイプをすーっと伝うように触れながら向かうのは駅前だった。
並木通りのある道中はそこそこ長い。紅葉を残しながらも、枯れ落ちた葉の絨毯で彩られる道をしばらく歩く。
信号をいくつか待って、並木を抜けて。
少しだけ人通りの増えた駅前。マフラーなびく通行人とすれ違いながら、喫茶店に入る。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれた
もう来てるって話だけど。
メッセージを頼りに席を探すと、窓際の席に待ち人を見つける。見つけられたことにほっとするも、待ち人の姿を見た瞬間、アオの顔が脳裏にチラつく。
女の子じゃない。
それは別に20歳以上だから子じゃないよという屁理屈でもなく、相手は男性だった。着こなしの難しい黒いシャツをスマートに着こなす、雰囲気のある男性。
長身で、すらりとした体型はモデルを思わせる。足を組んでコーヒーを飲む姿は、怜悧な目と合わさり、男の俺でも見惚れるほど様になっていた。通りかかった女子校生が彼を見てきゃっきゃっするのもわかる。
とはいえ。
いくら色気あふれる人とはいえ、相手は男だ。アオが疑ってかかるような関係ではない。ではないが、年の離れたただの友人もしくは知り合いであったなら、アオに黙秘することも、一緒に来ることを拒むこともなかった。
そうじゃないからこうなってるんだけど。
はぁ、と嘆息し、この密会がバレた時のことを思いげっそりする。
怒るか? ワンチャン怒らないかも? いや、怒るだろうなぁ。
わかりきった真っ暗な展望に肩を落としながら、彼の席のとぼとぼ向かう。すると、コーヒーを飲んでいた彼がこちらに気付いたようだ。
アオと同じ、恒星のように瞬く青い瞳を向けてくる。
威圧感すらある相貌が俺を見てふっと緩む。彼の笑みに応えるように席に寄ると、見た目とは裏腹に優しい声音で話しかけてくれた。
「こうして顔を合わせるのはいつぶりだったか。また会えたこと、嬉しく思うよ。私の息子」
「……お久しぶりです、おじさん」
「パパでいい」
周囲の目なんてそよ風とすら感じていなさそうな彼の要求に顔が引き
ダメだ。やっぱりアオは絶対に怒る。
涼やかな微笑みで周囲を魅了するアオの父親に、アオとは違う意味で頭を悩ませられる。
当然だが、息子ではない。