私が
現場を目撃したのはただの偶然。中学3年生と2年生の教室が同じ階にあって、たまたま通りかかっただけだった。
その日、帰りが遅くなったのは担任の先生からプリントをホチキスでまとめる作業を頼まれたからだった。
どうにも私は押しに弱く見えるのか、こういう頼まれごとをよくされる。
クラス委員長にお願いすればいいのに。
そんな内心を押し隠して笑顔で『はい』と頷いてしまうから、また次もと頼まれてしまうのだと思う。委員会も部活も入っていないから、暇だと思われているのも一因かもしれなかった。
一頻り片付けて、まとめたプリントを教卓に置いておく。
ようやく肩の荷が下りたと思わず吐息を零す。
始めの内は一緒に手伝ってくれていた友達も1人、また1人と帰っていき、最終的には私1人だけになっていた。
担任の先生には『終わったら帰っていいから』と言われている。気遣いのように聞こえるが、終わっても顔を出さないという意思表示にも聞こえて、労う気がないのかなと思ってしまう。明日になればお礼を言ってくれるのかもしれないけれど。
疲れと少しのやさぐれを感じながら、教室を後にする。
やっと終わった。伸びをしながら廊下を歩いて、階段の角を曲がる。そこには女子生徒3人男子生徒1人のグループが階段を塞ぐように階下を見下ろして立っていた。
なにをしているんだろう。
疑問に思ったけれど、見知った後ろ姿はなかった。だから、そのまま『失礼します』と後ろから声をかけて通り抜ける。
それだけのはずだったのに、
『……え』
と、彼女たちと同じように階段の下を見て驚愕することになるなんて、思いもしなかった。
階段の踊り場に向かい合って立っていたのは2人の男子生徒。
その時は顔も名前も知らなかったけれど、後になって高丈先輩と
それだけであれば驚くこともなかった。でも、階下を見た瞬間、私は言葉を失う。
高丈先輩の顔が赤い血で染まっていた。
顔の左側が赤く染まり、まるで赤いペンキをかけたようだった。足元には血の水たまりが広がり、ぽたり、ぽたりと、赤い雫が落ちる音が反響している。
そんな鮮烈な光景を前に、よく当時の私は気絶せずに見られていたなと思う。
視界の赤さに反比例するように、私の顔は青ざめていたはずだ。
誰だってそうなる。なのに、階下の2人はこんな危機的状況なのに言い合いをしていた。
早く手当てして。
そんな当たり前の思考が過ったけれど、目の前の事態を受け入れられない私は、口から言葉を発することができなかった。
ただ、高丈先輩と水爽さんの会話は朧気に覚えている。
階段から彼女たちが突き落とした。
どうして咎めないのか。
意味としてはそんな台詞を高丈先輩に叩き付ける水爽さん。対して、高丈先輩は血を拭いもせず、残った右目で水爽さんを見据えたままやるせないようなため息を
『幼馴染が泣くからな』
この時の私は、高丈先輩たちの事情なんてなに1つ知らなかった。
高丈先輩が虐められていることも。
階下を見下ろしていた生徒4人が彼を突き飛ばしたことも。
水爽さんがそれを目撃して、生徒4人を弾劾しようとしていたことも。
そして、階段から突き飛ばされたはずの高丈先輩が、加害者である彼女たちを庇っていることも。
本当になにも知らなかった。
私はただの部外者で、事件現場を目撃した通行人。
いっそドラマの視聴者と言ってもいいくらい、なにも関係のない人物でしかなかった。
でも。
でも。
『……っ』
ズルいと思ったんだ。
幼馴染が泣くから。
たったそれだけの理由で、額から血を流すほどの大怪我をしても守ってくれる。そんな人がいてくれる、見たことすらない彼の幼馴染を。
身を挺してまで守ってくれる強くて優しい人なんて、現実にはいないと思っていたから。
でも、目の前に、確かに存在している。
彼は幼馴染を守ろうとしていた。
お姫様のピンチを颯爽と助けてくれる白馬の王子様なんて夢、幼稚園の時に卒業したと思っていたのに。
ふと、高丈先輩が顔を上げた。目が合う。
それだけで、私は人間なら誰もが生まれながらにできる息の仕方を忘れた。
血で塞がっていない、強い意思を感じる黒曜石のような瞳。その目を細めて私を見返す彼が、この時なにを思っていたのか、今でも私はわからない。
ただ、わかったのは、この瞬間に私は初恋をしたということ。
絶対に実らない、初めての恋を。
◆第7章_fin◆
__To be continued.