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第1話 幼馴染の膝枕

「おかえりなさい」

 喫茶店から家に帰ってきた俺を出迎えたのは、エプロン姿で笑顔を浮かべるアオだった。一緒に帰れないと言って別れた時の不機嫌さが嘘みたいに柔らかい。


「……ただいま」

「ユイト?」

 帰宅の挨拶をしたら、アオが名前を呼んで下から覗き込んでくる。それで、自分が俯いていたことに気づいた。

「どうかした? 元気がないみたいだけど」

「どう、したんだろうな」

 自分でもわからない。喫茶店から家までどうやって帰ったのかさえ覚えていない。意識はずっとセナとの別れ際で止まっている。

 瞳が濡れた、セナの笑顔が頭から離れなかった。


「いや、なんでもない」

 俺を心配するアオの顔を見て、首を左右に振る。

「お腹が減ってるだけだ。今日の夕飯はなんだ?」

 極力明るく振る舞う。そうしないと、思考が意識に引っ張られてしまいそうだった。


 夕飯を食べて、寝る準備を整える。布団を敷くのにもここ1ヶ月でずいぶん慣れたものだった。少し前まではベッドで寝ていて、床の硬さを感じる布団に寝苦しさを感じていたのに、今となってはこれはこれでいいかもと思い始めている。

 人間の環境適応が凄いのか、それとも俺が鈍感なのか。どちらなのかはわからないけど、前者ということにしておこう。


 とはいえ、今日は寝れないかもしれない。

 意識の大半を占めるセナの別れ際の表情が、俺の眠気を奪っていく。

「諦める、か」

「なにを?」

 布団に転がって、天井を見上げていた俺の視界にアオが映り込む。食事の時も、風呂の時も、今日はくっついてくることなく大人しいと思っていたけど、最後にはこれらしい。


「ただの独り言に返事は……って、なにするんだよ」

「うん? 膝枕」

「それはわかる」

 頭を膝に乗せられて、なにをされているかわからないと言うほど寝惚けてはいない。


「俺が訊きたいのは理由だ」

「ユイトが辛そうだったから」

 星の瞬きと共に笑顔が降ってくる。内心を言い当てられて、喉に詰まっていた空気が微かに口から漏れた。

「そんなわけ……」

「ない?」

「……あるか」

 全てを受け入れてくれるような、慈しみの微笑みに白状する。心配させない、なんて気丈に振る舞ってみても、幼馴染には筒抜けだったらしい。

 それがどうして膝枕に繋がるのかはわからない。わからないが、強ばっていた体が解きほぐされたように緩んだ気がした。これが狙いだったのなら、アオは俺のことを理解しすぎている。


「もっとうまく隠したかったんだけどな。情けねー」

「いいよ、隠さないで。私はユイトが甘えてくれた方が嬉しいわ」

「一度気を許すと、ずぶずぶと甘やかされそうで怖い」

「うん、甘やかしたい」

 アオの手が伸びてきて、前髪を分けるように指先が額を撫でてくる。額の傷を見られたくないと理性がその行為を止めたくなるけど、撫でられる心地よさに黙って身を委ねてしまう。


「こんなに無防備なユイト、初めて見たかも」

「……別に、今も無防備ってわけじゃない」

「そうかもね」

 なんか、あやされてるみたいだ。いつもなら羞恥で焼ける頬も、今日ばかりは平熱を保っている。今だけは、寄り掛かる心地よさに身を委ねたかった。


「なにがあったか訊いてもいいかしら?」

「言えない」

「そう」

 深く追求してくると思ってたから、その反応は意外だった。

「いいんだ」

「今日はね」

 そう言って、俺の頭を優しく撫で続ける。それが嬉しいというように微笑むアオを見上げていると締め付けていた心が緩むのを感じる。

 それはきっと、世間的には油断と呼ばれるものだろうけど、いいかな、って流れに身を任せることにした。


「どうして、急に転校してきたんだ?」

 アオが引っ越してきてからずっと訊けないでいたこと。魚の小骨が喉に引っかかっているような感覚が常にあった。

 ただ、どうせのっぴきならない状況になっていたんだろうなぁというのは、長年の付き合いから理解していた。だから、無理に追い返すこともできないで、ずるずるとここまで引きずってきてしまった。


 そのまま引っかかった小骨が溶けてなくなって、疑念すらも忘れていくんだろうと、心のどこかで思っていた。言いたくないのはわかっていたし、無理に口を割ろうとも思っていなかったから。

 それをあえて口にしてしまったのは、今日は少しだけ感傷的になっているからだ。緩くなってしまった唇を、いまさらながら意識して閉じる。


 俺の問いかけに、アオは微笑んだままなにも言わない。電光を頭で隠して、影の中で見つめ合う。

 言いたくないなら別にいい。

 そう思って、目を閉じようとしたら、「外、行こうか」と急な提案に閉じかけた瞼を持ち上げる。

「外?」

「そう、夜のお散歩」

 アオがふっと口元を綻ばせる。

「月明かりの下なら、きっと口も軽くなるから。行こうよ、ね?」


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