縋るように俺の服を強く握りしめるアオの手から、緊張が伝わってくる。俺も同じだ。心臓が喉元まで跳ね上がり、呼吸が浅くなるのを感じる。
好き。
好意の表れ。
そうした気持ちをアオが俺に向けているのは知っていた。鈍感を気取る気はない。けど、それと返答はまた別問題だった。
弱々しく、潤んだ瞳。
地上で輝く星の視線から逃げたくなる。それでも、これは大事なことだからと、腹を括ってアオの肩に手をかける。
密着していた体を少しだけ離して、アオを見返す。
「アオは幼馴染だ」
誤解のないよう、一言一言丁寧に伝える。
「家族だと思ってる。そうした意味での、好意はある」
「……うん」
アオの気持ちを知っていたから答えを用意していたわけじゃない。ただ、ずっと抱えていた気持ちを赤裸々に吐き出しているだけだ。
「私を、女としては見れない?」
「……あぁ」
尋ねられて、口から零れたのは肯定ではなく嘆きだった。1番、アオに訊かれたくない言葉だったから。
これが、日常での出来事だったら適当に誤魔化していた。見れるわけねーだろおかしなこと言うなって、焦りはしても否定はできる。
でも、今はアオが告白してくれた大切な時だ。これまで、言葉にすることはなかった気持ちを、俺に聞かせた。なのに、俺だけが本音を隠して、上っ面の言葉を口にすることはできない。
してはいけないって、そう思う。
絶対に死ぬまで口にしないと決めていた。墓の下まで運んでもなお不安になる、誰にも知られたくない俺の恥部だ。
そんな気持ちを抱くことすら罪で、誰かに懺悔しようものなら首を切って死にたくなる。
息が苦しい。
ふっ、ふっと呼吸の感覚が短くなる。
アオの涙が移ったように、視界が霞む。そのまま溺れてしまえれば、どれだけよかったか。アオの肩を掴む力が強くなる。痛いほどに力を込めてしまっているのに、アオは顔色一つ変えないで、俺の返答を待っている。
だから俺も、恐れを呑み込んで告白する。
言葉にすれば、全てが壊れるとわかっていても、俺は醜い心の内を晒さないといけない。
「俺はアオを、抱きたいと思ってる」
言った。
言ってしまった。
吐き気が喉に上ってくる。それを堪えて、次の言葉を舌の上に乗せる。
「幼馴染なのに、家族なのに。アオをそんな目で見てしまう自分が嫌だ」
気持ち悪い。
「唇に触れたい。胸に触れたい」
怖気がする。
「アオを押し倒して、俺の物にしたくなる」
死にたくなる。
どろりとした汚泥のような感情が
止めたいのに、一度吐き出すと蛇口が壊れた水道のように止められない。
衝動的に顔に爪を立てる。痛みで自分を取り戻したいのに、痛覚が麻痺しているようになにも感じない。
アオを抱き寄せて、泣きつきたくなる。でも、それだけはしないと、最後の一線だけは守ろうと俺は自分だけを傷つけ続ける。
「俺が高校に上がって家を出たのもそれが理由だ。アオに手を出したくなかった。怖気すらする俺の低俗な部分を、見せたくなかった」
アオも、セナも、ソラも。
本当の俺を理解していない。家族と思っている幼馴染に手を出したくなるクズだってことを。
「それは、好きとは違うのかしら? 異性として好きなら、そういう気持ちを抱いても、不思議ではないでしょう?」
「俺はアオの幼馴染だ」
それは俺の中にある明確な線引。
「家族なんだよ。そんな相手に抱く情欲が、純粋な好意なわけないだろ?」
好意の延長線上にある欲じゃない。出発点から欲だった
「だから、俺は――」
「いいよ」
「え」
断りの言葉を吐こうとした口を、セナが指で押さえてくる。両手で俺の頬を包んで、唇の端から端を親指が伝う。
吐き出した欲を刺激するような行為に、背筋が震えた。
「やめろよ。そんなことされたら」
「いいよって、私は言ったわ」
全てを許すようにセナが笑った。
「性欲、情欲、色欲……なんでもいい。ユイトが私を受け入れてくれるなら、なんだって嬉しいわ」
するりと蛇のように俺の手をセナが絡め取ってくる。そのまま蛇が口で咥えるように手首を取って、自身の胸に押し付ける。
コートの上からでも沈む、ふくやかで柔らかい胸。触りたいという衝動を必死に押さえてきたのに、実際に触れる時はあっさりしたものだった。
手のひらで感じる刺激に脳が壊れそうになる。ギリギリで留めている理性が、今にも崩壊してしまいそうだ。
ひび割れた理性を壊すように、アオが唇を寄せてくる。
「ユイト……私を、犯して?」
ぷつりと理性の糸を断ち切る囁きだった。
頭なんて働いていなくて、ただただ近づいてくるアオを見つめ返すことしかできないでいた。
唇が触れたら、終わる。
そんな予感だけが胸の中にある。でも、俺は繋ぎ止めていた理性はもう切れている。
輝く青い瞳が艶やかに細まる。深海のように底の見えない青い暗闇。底のない青に沈んで行こうとして俺は――アオの肩をぐっと押して突き放した。
「俺は……」
アオの両肩に手を置いたまま、項垂れるように地面を見下ろす。
きっと傷つけた。
そのことに深い罪悪感を抱きつつも、俺はアオを受け入れることができなかった。
「俺は……ちゃんとアオのことを好きになりたい」
情欲に負けて、ただ気持ちよさを求めてアオを抱くなんてしたくなかった。
そうした低俗な欲望なんて抜きにして、愛おしさによってアオに触れたかった。
「今、アオを抱いたら、他の奴らと一緒になる」
見た目や雰囲気で、アオはこういう人なんだと決めつける人たち。俺はそんな奴らと一緒にはなりたくなかった。
「そういう関係になるなら、情欲じゃなく、ちゃんとアオを好きになって、先に進みたい」
だから悪いと謝る。
アオの告白を無下にした。
顔を伏せているから、アオがどんな顔をしているかわからない。泣いているのか、ただ悲しい顔をしているのか。
それでも、断ったのは俺だ。
息を吸って、吐き出す。覚悟を決めて顔を上げると、そこにあったのは俺の予想に反して、泣きそうに瞳を潤ませながらも、嬉しそうに笑うアオだった。
「ユイトって、意外とロマンチストよね」
「そんなこと、ないが」
「あるよ」
とんっと地面を蹴って、アオは俺の手から離れる。後ろ手を組んで、踊るようにくるくると回る。
「うーん」
悩むような声が聞こえてくる。
そうやって一頻り回っていたアオが、俺の方を向いてピタリと止まった。腰を曲げて、下から覗き込みように見上げて、にこっと微笑む。
「うん、待ってる」
その表情は声音はいつものもので、俺は密かに胸を撫で下ろす。小さく「ありがとう」と零して、今できる精一杯の笑みを浮かべる。
ポーンポーンと公園の時計が静かに夜を告げる。
「……12時の鐘」
夢は覚め、魔法は解ける。
でも俺たちは変わらない。けれど、変わらないままでいられるはずはなかった。
「寒くなってきたし、帰りましょう」
「そうだな」
隣に並んで、アオが手を繋いでくる。当たり前のように恋人繋ぎ。いつも以上に繋いだその手を意識しながら、今はこれでと俺からも握り返す。
応えるようにアオは握り返して、そっと頭を俺の肩に乗せてくる。
近すぎる距離。でも、超えることのなかった最後の一線。
しばらくはこの距離のままかと、影を1つにして帰路についた。
この距離が縮まるのか、離れるのかはわからない。けれど、今はただ、この手の温もりを感じていたかった。