「ふふっ」
『才能を与えし者』女神インゲニムウスがこぼすように笑った。
神の笑顔は美しい。……金髪の者もこの世界にいる。碧眼の者もこの世界にいる。肌の白い者もいる。というより、それら特徴を備えた者は、この世界の大多数を占めている。
だというのに神の笑顔は特別に美しい。おのずから光り輝くような存在感。どのような者と並べられても目を吸い寄せられるような魅力。ただ微笑むだけで人を狂わせ、ただ指差すだけで多くの者を従わせる。根拠はいらない。見れば、感じればわかる。それこそが『神』という存在。
その存在の微笑みが──
「何がおかしい?」
ディにはたまらなく、気に障った。
女神インゲニムウスは微笑んでいる。
「今代の勇者は、失敗作でしたね」
「……」
「『自分を見てくれ』だなどと。……あれだけのお方の高潔な魂を宿しておきながら、時代と環境によってこうまで人格が歪むとは。彼自身に一体何があったというのでしょう? 魂──才能がなければ、誰もが蔑み、誰もが唾を吐きかける屑。それが今代勇者アーノルドだったのでは?」
「……」
「だというのに、『自分を見てくれ』というのは……ふふっ。どうしてああも、前向きでいられるのでしょう? 見てくれれば評価される、本当の自分には才能なんかに負けない価値があるとでも、信じ込んでいたというのでしょうか?」
「いや」
『本当の自分を見て欲しい』。
難しい話、なのだろう。可視化された
そんな世界で『本当の自分』を示す機会など確かにないのかもしれないし……
……たとえば。
『
努力しているから『今』実力があったというわけではないし、努力しているから人格が立派だったというわけでもない。
それでも。
「ただ、見てもらえるだけで、よかったんだと思う」
「えぇ? あのような屑の性格でもですか?」
「ああ。『才能』によらない自分を、誰かが認めてくれる──『認識』してくれること。その評価がゴミでも屑でも、自分を見ていてくれる人がいるという事実は、嬉しいんだ。……『他人の中に自分がいる』というだけで、心が救われるような想いを抱くものなんだよ、人間は」
「無価値」
「確かに、価値で測れるものではないな」
「無意味」
「確かに、意味があるものでもないな」
「真に気高いものは、他者など必要とはしません。真に気高いものの前では、神さえも、そのものを輝かせるための舞台装置となる。だから、わたくしは、あのお方のためにこの世界を整えた。すべてがあのお方という主人公を輝かせる舞台装置であれと願い、そうしたのです」
「でもさ、名前も顔もない脇役にだって人生はあるんだ」
「ですからそれは、無価値なものです」
「価値で測れない。意味もない。神の視点からしたらそうだろう。でも──」
ディが空間より抜き放つもの。
……それについての知識をディは持たない。
だが、無意識に選び取ったこの『可能性』、それは……
かつて。
まだこの世界に定義化された
神はもっと数が多く、荒々しく、そして、あまりにもヒトの世の中に介入してきた。
自分の勢力を伸ばそうと──信者を増やそうとその力を奮い、世界を壊しかけていた。
その時代、一人の男が立った。
──人には無限の才能がある。だから、君を信じよう。
──すべての人は、神にいたずらに蹂躙されるに惜しい可能性がある。だから、君を信じよう。
──ヒトの才能を保証する権能なんか、神のはびこるこの世界では弱々しいものかもしれない。
──だから俺が、人の
──すべての人には、
「──すべての人には、侵されてはならない物語がある。だから俺は、そのために戦える」
神が荒々しく強大であった古い時代。
ただ、勇気を以て神々の支配に逆らい、人の可能性を示した者がいた。
その者の才能をこのように定義する。
ただ、勇気によって立った、一人の高潔なる者。
……だからこそ。
その男に救われ、その男を愛した女神の顔色が変わる。
「……なぜ、貴様がその剣を手にできる」
神の目が怒りに染まる。
自然現象が神の怒りに呼応する。
空に暗雲が立ち込め、大地が激しく震動する。
雷交じりの豪雨が降り注ぎ、不気味な冷たい風がうなりをあげて吹き荒れた。
それら現象、まさしく神の力。
……かつてこの世で荒々しく振る舞い、そうして『勇者』に死闘の末に倒され──
『人間の神』、『才能を与えし者』女神インゲニムウスに習合された神々の力である。
──『古代』が目の前に立っている。
伝説にさえ謳われない、人と神との距離が近かった時代。
その時代に荒れ狂った神々を宿したモノが、目の前にいる。
これより挑むモノ。
ただ一柱の神ではなく、『一つの時代』に等しい。
『一つの時代』が荒れ狂う。
「なぜ、貴様が、その剣を所持できる。なぜ、貴様が、その剣を持っている。その剣は、その剣は!」
左手に握りしめる剣。
鍔が広く、刃の形状は鍔元から発してだんだん細くなっていく三角形。
昨今流行りの『剣』とは形状が違う、古代の剣。
──神が勇者に与え、いつかまた『あの人』が本当に蘇った時にまた渡そうと、その手に持っていた剣。
すなわち、伝説に謳われる、所在不明の聖剣。
「この剣は」
ディは剣を構える。
「……この剣がどういう剣だか、知識はない。価値も意味も知らない。だが、わかる。この剣はきっと、人が人のために振るう剣だ。──お前のような『人類の敵』を斬る剣だよ、女神インゲニムウス」
「わたくしがその剣の敵であるものかァ! その剣は、わたくしの愛する『勇者』のための物!
『一つの時代』が迫る。
「そうか、この剣は『勇者』しか使えない剣か。なら──」
ディは剣を振りかぶって迎え撃つ。
……
それは強いものではない。人間が努力で行ける限界までしか行けない才能だ。
あくまでも『将来の自分』に一足飛びに渡るだけの力。だから、人以上には行けない。
人以上、というか。
自分の限界より先には、行けない。
だからこそ、ディは笑った。
「──人は誰でも『勇者』になれるってことだな」
神を斬る。
かつての時代。荒々しい神々と、勇気と可能性だけをよすがに戦い、これを斬り続けた男の剣で、神を斬る。
「…………」
いつの間にか、女神インゲニムウスとディとの位置は変わって、二人は背中を合わせるようにいた。
……いつの間にか、この戦いは、多くの者が見守っていた。
その視線の中で、女神インゲニムウスは、斜めに両断された己の体を見下ろす。
「……」
それから、視線を天へと向け、
「…………わたくしは、いつの間にか」
涙を流した。
「人の可能性を奪う存在に──『人類の敵』になってしまっていたのですね」
……かつての記憶がよぎる。
幼く弱い神であった。荒れ狂う自然神の生きる世界において、滅びを待つだけの弱々しい存在であった。
その存在であったころ……
自分を連れ出した
なんでもできそうな、手だった。
可能性そのもののような、大きな、強く、優しい、手だった。
それを、長い時間の中で、忘れてしまっていた。
女神の姿がボロボロと崩れていく。
すべてが光の粒子へと変わっていく。
最後に彼女は、『勇者』を見て──
祝福するように、微笑んだ。
こうして一柱の女神が、『無』へと還った。
女神インゲニムウス、完全殺害完遂。