王軍に残された戦果は──
「『勇者
ヴォルフガング将軍は、執務机に積みあがった書類の山を見て、片手で目元を覆っていた。
事務作業である。鎧を脱いだその体は無駄なく鍛えられて大きく、彼のしてきた努力と戦いが一目でわかるようであった。
だが及ばないと感じるのだ。彼自身は、自分の至らなさを知っているのだ。
「……世間は『アレ』と殺し合って華々しく散った俺らを、
「将軍、手が止まっておりますよ」
頼れる副官がそばの机から声をかけてくる。
その手は止まっていない。さすが。すごい。ヴォルフガングはそんなふうにふざけた快哉でも飛ばしてやろうかと思った。
というか、お茶らけないとやっていられないのだ。
「我が有能なる副官よ。どうにも『実際に戦いを経験した者』のことを『あの戦いを見てもいない者』があれこれ言う様子は、『お前らは死んで話のタネになってろ』と言われているようで、胸糞悪くならんかね?」
「はしたないですよ侯爵様」
「うるせぇ。俺は冒険者で一生を終えるつもりだったんだよ。それを兄貴がさぁ……くそ、あいつめ。楽隠居しやがって。今度高い酒でもおごらせよう」
「
「……はい」
「うちの父親に酒をおごらせるというのは同意ですが、その前に、手、動かせ」
「…………はぁい」
筋骨隆々の偉丈夫も、事務的・折衝的苦労をかけている甥っ子に強く言われては、借りてきた猫のような様子になるしかない。
今回積みあがっている書類はしかし、これでも全体の一部なのだ。ほとんどが『噂を聞いただけの連中』の苦情であり、ヴォルフガング将軍直々に目を通さないといけない苦情は、決裁権だの爵位だのを持つ者からのものだけである。この十倍以上の量で軍の事務方は圧殺されているところなので、あまり遊んでいても申し訳ない。
「……いやしかしだな、これはもはや我らに対する『攻撃』ではないか? 軍を出してこの書類どもを蹴散らしてやるわけにはいかんのかな、こう、火とかつけて」
「それはいいですな。周囲で酒盛りでもすれば兵どもも盛り上がるかと」
「だろう?」
「盛り上がった兵は来期、軍に残すわけにはいかぬという点を鑑みぬならば、非常にいいアイデアかと」
「……だなぁ」
「焼き捨てたい気持ちも轢き潰したい気持ちもみな同じです。ぐちぐち言わずとっととやれ」
「はい」
しばし、沈黙の中でペンを走らせる音だけが響く。
だが、ヴォルフガングはどうにも集中がもたない。
普段の書類仕事ではこんなことはないのだ。だが、この仕事ばかりは、やる気が出ないし、途中で文字もなんだか認識できなくなる。
何せ無意味なのだ。この紙切れを出してくる連中をあの戦場に立たせれば、何もできずに震え上がって勝手に過呼吸で死ぬだろうなとしか思えない。そういう連中が外野からぐちぐち言ってくるのに対応するというのは、むなしくて、やる気が出ない。
だから、
「なぁ、我が優秀なる甥っ子よ」
「そろそろケツを蹴っ飛ばしますよ」
「……『神殺し』はどこへ消えたと思う?」
優秀なる甥っ子にして副官の手が止まる。
あの日……
『神殺し』は、消えた。消えた、としか表現できないなんらかの方法で姿をくらました。
もちろんホームにしている街を徹底的に調べさせた。
『神殺し』の故郷へも調査に向かわせた。
だが街のギルド長は元パーティメンバーのヴォルフガングにさえ『行方は知らない。こっちが知りたい』と言う始末で、故郷の方は若い神官が『あんな無能の話なんか聞きたくもない。もう縁もない』という有様で、実際に『神殺し』を育てた者はすでに他界しており、なんの収穫もなかった。
手がかりが見つかると思っての調査ではない。
どちらかと言えば、『神殺し捜索にかこつけて、目はつけていたが手出しのできなかった場所へのガサ入れ』が本来の目的の調査だったが……
「伯父さんの方が、私よりも近場で神殺しのことを見ていたのではないですか?」
「うーん、それなんだがなあ、半分ぐらい意識が飛んでてわからんのよ」
「……」
「ただまあ、なんだかな、俺の聞き間違えじゃあないってんなら……」
「なんですか言いよどむだなんて」
「……正気を疑われそうなことを言いかけてるんだよ」
「こんな仕事量で正気でいるなんて思ってないから大丈夫ですよ」
甥っ子にそう言われて、ウォルフガングはため息をつき、
「……どっか、知らない世界に行ったんじゃあないか」
「…………」
「おい、なんだその反応は」
「いえ、本当に正気じゃなくて驚いただけです」
「だから言ったんだよ!」
「正気に戻らなくてもいいので仕事は続けてくださいね」
「延々と『申し訳ありません』と書くだけの仕事なんざ続けたくねぇよ!」
ヴォルフガングの嘆きに、甥っ子はため息とひと睨みで応じる。
……だが、しかし。
目の前で消えた『神殺し』が、もしも本当にまた別な世界に行っていたとすれば……
「大変ですねぇ、いろいろ」
行った先の世界の人たち。
それから──
行った先の世界の『神』にとって、心穏やかではないことが起こりそうだな、と笑った。
◆
「……ディさん」
最近、彼女は美人になったと評判だった。
野暮ったい大きすぎるメガネをかけて、自信のない猫背で、いつもおどおどしゃべっていた彼女である。
そのくせ押しが強いので──というか、本人としては『必要な事務連絡を必要なようにしているだけ』のつもりなので、厄介ごと請負人にされていた、そういう女性であった。
女性を見る目だけは確かだとディも思っていた勇者アーノルドによって『磨けば光るタイプ』判定を受けていた彼女は最近、物憂げにため息をつき、メガネをたびたび外して磨き、切ないため息をついていた。
その様子が本当に美しく、哀れみを誘って、なんとも言えない色気がある。
冒険者はお調子者の荒くれ者なので、こういう様子の受付嬢を見ると口説くのを礼儀だと考える。
だが、誰も彼女に、そういう軽い『口説き』はしないし、新参者がそういう『口説き』をしようとすると、先輩たちはこぞって止める。
なぜなら、
「……ディさん」
彼女が想っているのはあきらかに、『神殺し』。
冒険者どもは仲間を見捨てない。その場のノリで熱さ最優先の決定を下し、その中で死んでいったりもする。
だが、平時は明らかに『ヤバいヤツ』を避ける賢さもある。
つまり──
彼女が想っている相手が、明らかに『ヤバいヤツ』だから。
一方的な想いならともかくとして、(少なくともギルド内においては)一番、あの『神殺し』と仲が良かったのが彼女だから……
そういう、『厄介な男の女』には、触れない。
触れないで、
「……早く帰ってきてやれよ」
願うばかり。
早く帰ってこい。
帰ってきて──
また、それを
◆
「……ここは」
ディは周囲を見回す。
まばゆい世界だった。
美しい白い光が照らす中を、そこらに生えた、ピンク色の花をつけた、茶色い樹皮の木々がざわざわと揺らめいている。
風もどこか甘く心地よい香りがした。
風光明媚──という表現をディは思いつかなかったが、まさしく、その言葉を生み出した者が目にしていたのは、こんな美しい景色なのではないかというような場所。
「……どこだ」
とにかく女神から逃げるために『異なる世界』へ渡った。
そのせいで、この世界がどういう場所で、時代がいつで、どういう人が住んでいるとかいうことがさっぱりわからない。
「とにかく歩くか」
故郷の世界はまだ戻らない方がいいだろう。
さすがに女神イリスにバレそうだ。
歩いていると、かなり遠くの方に、城塞都市のようなものが見えた。
ディの故郷の世界もまた城塞都市がいくつもあるような場所だ。
ということは文化は近いのだろうか?
しかし……
「……構造というか、素材というか……様式が、まったく違う、のか?」
……その世界は。
城塞都市を形成するのは石ではなく特殊な木々であり、その壁を保護するのは魔法ではなく
そして何より、その世界では……
モンスターは、『妖魔』と呼ばれていた。
「……」
ディは足を止める。
周囲に、気配がある。……それも、かなり隠密能力に優れている。
ディが『忍び込む』という方面で特化した未来を持たなければ到底感知できなかっただろう。
そしてその気配……
(デカいな)
周囲に、姿らしきものはまったく見えない。
だがその巨大さがわかる。
つまり……
透明になることができて、巨大で、気配を殺すのがうまい。
その気配は、ピタリと動きを止めると──
ディに向けて、大きな
そいつは。
山のように巨大な、蛇だった。
ディは笑う。
(ここがどこだかは、知らないが──)
経験が適した対処法を自然と選び取る。
この蛇に適した武器、適した戦闘スタイルは──
片刃の剣を使う剣士。
反りの浅い片刃の、切れ味のよさそうな剣を構えたディは、食いかかってくる蛇の口内に切っ先を突き付け、
「努力のしがいがありそうだ!」
突き立てる。
……ここは『獣の世界』、シシノミハシラ。
妖魔ヤマタノオロチと、巫女たちが世界の存亡を懸けて戦う──
女尊男卑にして男女比の狂った世界。
『神殺し』が、新たな世界で、新たな可能性の模索を開始する。