シシノミハシラ。
ディはまだその名前も、ここがどういう世界かも知らない。
だが──
襲われたのなら、対応するのみ。
その身に宿す『未来』は『片刃剣を極めた剣士』のもの。
同時に取り出すのはこの人生に適した刃。腕一本分ほどの長さを備えた、一見すると細く、薄く、頼りない刃。
しかし今のディはわかっている。この刃はちょっとやそっとでは折れず曲がらない『粘り』を備え、この薄い刃の切れ味は、
美しい世界。花の咲き乱れる世界。明るい日差しが差す、この世界──
襲い来る脅威は『蛇』。山のように巨大な蛇。
刃を構え、迎え撃つ。
……だが。
ディの『反撃』は、行われなかった。
「すまない、少しいいだろうか」
今まさに、一瞬あとにはディと『蛇』が刃と牙を交わす、火急の瞬間。
だというのに耳に触れた幼い少女の声は、あまりにものんびりしていて……
その少女が発言をするあいだ、時間の流れがゆるやかになっているかのように錯覚するほどだった。
「これは決して
……いや、錯覚ではない。
ディは己の意思で、動いていない。
けれど……
『蛇』の動きが、止まっている。
不自然に、止まっている。力で止められている様子でもない。凍り付いたり、石になったりしている様子でもない。
時が、止まっている。『蛇』の時だけが。
「生物学的な見地から君のことを観察した場合、君は、高い確率で『男性』であると推測されるが──」
蛇とディとの間に、一人の少女がてくてくと、のんびり歩いてくる。
その少女は巫女だった。
そして、獣だった。
真っ白い体毛の猫を思わせる。
……ディの故郷世界にはいないが。その、頭の上に生えた三角耳。巫女装束の後ろでにょろりと動く細長い尻尾。
だというのにそれ以外は人間、それも、美しい容姿を誇る、人間。
それは、『獣人』と呼ばれるべき人種であった。
……だが、この世界──『シシノミハシラ』において、獣人という言葉はない。
彼女こそが、『人』なのだ。彼女のような存在こそが、この世界の『人』なのだ。
その彼女は、停止した『蛇』に完全に背中を向けたまま、表情の乏しい顔で、しかし、興味深そうに、明るい青の瞳でじろじろとディを観察し、
「──危機的状況に陥っていた君を助けた僕に、『きゃあ素敵』などと言いながら、抱き着いてキスをしてくれたりしてもいいのだよ?」
なんだか奇妙なことを言い始めた。
◆
「さっきのは『ヤマタノオロチ』の、
ぱちぱちと炎が爆ぜている。
いかなる手段においてか、『蛇』──『ヤマタノオロチの子供』を停止させ、そのまま倒してしまった少女が今、肉を焼いているのだ。
先ほどの『ヤマタノオロチの子供』の肉である。
時間は昼時であるらしい。
野原で火を焚き、枝に突き出したぶつ切りの肉を焼く。
しかもその肉は今さっきシメたての蛇肉。
ディの世界の冒険者でもなかなかやらない、ワイルドすぎるランチタイムであった。
ぱちぱちと爆ぜる火のそばでは、でっかく切り分けられた蛇肉が焼け、脂を落としながらジュワジュワと音を立てている。
蛇肉というのはもう少し固く脂肪がないイメージをディは持っていた。独特な臭みもあるはずだ。
だがこの肉ときたら、ただ木の棒に突き刺して焼いているだけ──下処理らしいこともまったくしていないというのに、その肉は見ただけでも想像できるほど柔らかそうで、焼ける匂いはなんとも食欲をそそるいい香りがする。
火種にした枝がそもそも、いい匂いのする煙を出しているのだ。脂たっぷりの、柔らかそうで、いい香りのする煙で燻し焼きにされた肉。
しかも少女はこうして外で狩ったばかりの獲物の肉を調理する想定をしていたようで、塩と思われる粉をぱらぱらと肉に振りかけるのだ。
ごくり、とディは思わず唾を呑みこんだ。
少女は「ふーむ」と唸る。
「これは君に意地悪をしたいというわけではなく、野生に近い妖魔肉、それも『ヤマタノオロチの子供』ともなると、男性にとってはちょっと刺激が強いような気がするんだ。しかし、僕は女性、それも巫女に選ばれるほどのものだから、男性がそこでお腹を空かせているのに放置するというのも、巫女としての淑女性に欠けると言わざるを得ない。ああ、だからこれはまったくもって使命感からの施しであり、決して『蛇の肉は強い媚薬作用がある』といった俗説を頭に浮かべて何かを期待するといったことではないんだよ。この理知的な僕の中にも下劣な欲望があると人は勘違いするのだけれど、僕はまったくもって理想的な巫女であるから、そういう俗な欲望とは無縁だということを、重ねて君に認識させておこう」
「つまりなんだ」
「食べたいなら食べるかい?」
「いただきたい」
実はディ、本日は朝食しかとっていないのだ。
しかもディの認識だと、朝食をとって、ギルドの依頼を受けて、夕方まで働いて、ギルドに報告をして──
そこから夕飯にでもしようかと計画していたところ、『王からの召喚状が!』という話で、そのままの流れでなんだか教会および王軍と戦い、神と戦い、神から逃げ……
現在に至っている。
つまり『仕事をしたのにまる半日ほど食事をとっていない』という状態にあって、お腹が空いていた。
少女は「うーむ」と唸る。
「これは僕が寛大であるからする特別な給仕であって、普通の女、ましてや巫女に男性が『妖魔の肉を食べてみたい』などと言っても、受け入れられないばかりか、お説教、再教育、そういう事態に陥ることを、あえて強く言っておこう。そもそもにして男性は体も顎も弱いからね。そういう存在に妖魔肉は本当に刺激が強いんだ。本来、君たちの施設へと届けられる肉というのは、複数の工程で浄化の儀式を終えたものであって、野趣あふれるままの──」
「早く欲しいのだが」
「まぁこれだけは聞いておいてくれたまえよ。僕は『時間』に干渉できる。なので、もし妖魔肉を食べてなんらかの不調を感じたらすぐに言うんだ。時間を止めて君を危機から守ろう。そのさいに、君の食べた妖魔肉の毒を浄化するために、服を脱がせたり、体を触ったり、においを嗅いだりするかもしれないが、あくまでも──」
「いいからくれ」
「わかったわかった。君は欲しがりさんだな。おいで」
「おいで?」
「なんだい君は、この僕が焼いた肉を食べようというのに、僕に『あーん』もさせてくれないのかい? 男性というのはね、そういう、女のロマンをわからないところがよろしくない。いいかい、女というのはね、どんなに強面であっても、『お外で行楽』とか『男性と二人きりで食事』とかそういうのに憧れを抱くものなのさ。もちろん理知的にして多くの手本たる巫女の僕とて例外ではなく、」
「わかった。では失礼する」
「おおお……本当にいいのか……言ってみるものだね……」
ディが『あーん』と口を開けると、要求した方の少女がちょっとためらいを見せた。
しかし軽口という感じではなく、実際にやりたかったことではあるらしい。
緊張した面持ちでディへと串刺し肉を差し出す。……その様子は『男性と二人きりで食事してあーんする』というよりも、『警戒心の高い小動物を餌付けする』という様子であった。
差し出された肉に、ディはかじりつく。
驚くほど、柔らかい。
野生の肉を下処理もせずに焼いた場合、たいていの場合はとんでもなく硬くて、噛み切れたものではない。
だがこの肉は前歯を立てればそのままホロホロ崩れるほど柔らかく、口に入れた瞬間に広がるのは『下処理をしない獣肉の臭み』ではなく『芳醇んで濃厚な、チーズを思わせる脂の香り』だった。
そのくせ固い肉特有と思われていた『噛めば噛むほど旨味が染み出す』といった特性まで備えている。油断すれば口の中で溶けそうなほど柔らかいくせに、噛めばしっかりと肉の歯ごたえがあるのだ。
それでも数回も噛み締めているとなくなってしまう。……完全に溶ける、というわけではない。あまりの美味さに我慢しようと思っても飲み込んでしまい、口の中にとどめ置けないのだ。
ディは自然と二口目を要求していた。
少女は「おお……」と感動したように声を発する。
「これは世界に号するべき大事件だよ。人類はまだ妖魔の影におびえて城塞都市から出ることは叶わないけれど、人類は野生の男性に『あーん』をすることに成功したのだ。世界にとっては小さな一歩かもしれないが、僕の自伝にはこの日のことを目覚めた時の太陽の色から眠る時に見ていた夢に至るまで詳細に描写をし──」
「早くくれ。それとも自分で食べていいか?」
「わかったわかった。だがこうなると僕も要求の上乗せをしたくなってくる。どうだろう、僕のふとももに寝転がってみないか? こう見えて僕のふとももはかなり自信がある。世の中には太ければ太いほどいいという向きもあるようだが、華奢な僕の体には、華奢なりの高い価値があるものと、」
「わかった」
「おおおお……!? 本当に!? やったー! 他の巫女連中に自慢しよお!」
こうしてディは膝枕され、なぜか『撫で撫でしてもいいか』とか『手をつないでもいいか』とかどんどんオプションを加えられながら、肉を食べていくことになるのだが……
肉を喰いながら、ディは冷静に考えていた。
(一体どういう状況なんだこれは)
この知らない世界に来たあとに抱えた疑問、一切合切解けていないばかりか、深まるばかりであった。