「このぐらいでいいか」
ディは城塞都市から脱出し、人の気配のないあたりまで移動した。
脱走が派手すぎたために追手がかけられたのを察したので、見つかりにくそうな場所に来る必要があったのだ。
「……あそこまで派手に脱走しなくてもよかったな」
思い返せばもっと穏便にやるべきだったし、気付かれないように抜けることもできたはずだった。
だが、できなかった。……苛立ちがあったのだ。あの地下空間に一秒でも長くいたくない思いがあまりにも強すぎて、もっとも短絡的で目立つ方法をとってしまった。
「まだまだ、未熟だ」
だが、精神性までは老成した自分のようにはいかないらしい。……それか、老成した自分も、いわゆる『精神的成熟』はさほどでもないのか。
ともあれ──
森、である。
城塞都市を抜けてひたすらまっすぐ、全速力で進んだ先には、身をひそめるのによさそうな森があった。
おそらく名前などもないのだろう。黒土の森。気温は肌寒いぐらいで、森の外とは明らかに季節からして違う様子だった。
だというのに寒さにも負けず、木々は黒々とした葉をいっぱいにつけており……
ざっ、ざっ、ざっ。
土を掻くような音がする。
ディは『刀』を構えた。
鞘に入れたまま、腰の左に備え、鯉口を切り、柄に軽く手を乗せる。
そして……
正面から猛烈な勢いで、何かが迫る。
それとすれ違うようにして、抜刀。
手に返る感触は鋼を引き裂いたがごときものだった。
振り返り確認すれば、そこにいたのは……
「イノシシ、か」
四足歩行の状態でディの胸当たりまで高さがある、巨大なイノシシ。
大物だ。
しかし……
ざっ、ざっ、ざっ。
木々の向こうから、土を掻く音が、複数聞こえる。
次の瞬間、めきめき、ばきばきと木々をなぎ倒す音とともに……
ディの身長の三倍は高さがある、超巨大イノシシが、それに比べれば小型のイノシシらとともに、一斉に突撃してきた。
ディは笑う。
「喰いきれるかな」
抜き放った刀を構え、イノシシどもを迎え撃つ。
ディの『努力』が始まった。
◆
「
「だからそうハッキリ言ってるんだが!?」
タマはディの脱走の話を聞き、クールに口元に笑みを浮かべた。
そして出された茶をすすり、芋羊羹を食べ、また茶をすすり……
「………………『格子を斬り裂いた』とはなんだ? 男性保護施設の格子は
「だから大騒ぎしてるんだが!?」
茶屋、という場所がこの世界の街にはいくつも存在する。
そこは店の
カウンターで注文してから席をとる形式であり、ここでは茶、酒、食事、甘味などをとれる。
そして何より重要なのが、『巫女』と呼ばれる、この世界における強者の女の中でもさらに一握りの才能を持つ強者たちが集まり、情報交換をする場所としても機能している、ということだった。
「その情報は確かなのかい? 僕は君たちの情報伝達の雑さには少々ばかり物申したい気持ちが常々あって、このあいだなど──」
「だーかーらー! 『神鉄の格子を斬り裂いて脱走した』っていう目撃情報が、こっちの視点でも疑わしいから、保護したアンタに詳しい話を聞こうってことで会話してんだよォ!」
ふぎゃあ、としっぽと耳の毛を逆立てながら、青毛の女が叫ぶ。
タマは横でツバを飛ばす女から湯呑に入った緑茶と団子をかばうように遠ざけ、思案する。
(武器はなかった。……いや、そういえば、見かけた時には刀みたいなものを持っていたような気もする……でもその後は何も持っていなかったし、何かを隠している様子もなかった……なかったっけ……く、『撫で撫で』とか『あーん』とか刺激が強い記憶が僕の思索の邪魔をする……! 今思い出したいのはそっちじゃないのに、あの夢のような光景が僕の心をかき乱すのだ……!)
「何かまたどうでもいいこと考えてないか!?」
「失礼な。僕の思索に『どうでもいいこと』など存在しない。だいたいにして──」
「本当に口数の多い女だよアンタは! ……で、真面目な話、どうなの? 神鉄についても詳しいでしょ。専門家としての意見も交えて、男が神鉄を斬れるかどうかを教えてほしいんだよ」
「絶対にありえない。神鉄どころか、ただの金属さえ斬れない。斬れないっていうか、傷をつけることもできない。男性は我々女から見ると本当に信じがたいぐらい非力であり、」
「だよねぇ」
「君たちは本当に気が短くて嫌になるね。
「『脱走』がもう七日前だから、まともな男性ならもう……だけど、『まともな男性』だと思うには不可解なことが多い。だからまぁ、捜索範囲を『街の中』から『外』にまで広げよう、っていうのがそろそろ発表されるわけなんだけど、そういうわけでアンタも駆り出すからね」
「つまり最初に見つけた者が、街の外という人目のない場所で、彼と甘い時間を過ごしていい権利を有する──というわけだね?」
ここは『茶屋』である。
巫女たちが情報交換をする場であり、周囲には当然ながら巫女の客が多い。
そういった場所で、『男性が行方不明』『街の外に出たかもしれない』『最初に見つけたやつの好きにしろ』というような情報が、特にひそやかでもなく発せられてしまった。
……この世界には『男性』が少ない。
地下施設(男性は物理的にも守る必要がある存在なので、万が一妖魔が街に襲撃されても無事で済むようなシェルターとして築かれている施設)に男性が集められて保護されているのだが、内部で給仕をする担当者以外には、特別な権利を持った女が『呼び出し』の権利を得るのみである。
そもそもにして女性の寿命が長いので人口減少についてさほどの危機感がない世界ゆえに、『男性』というものは『トロフィー』と化しており、結果、『多くの女がなかなか接することができない存在』になっていた。
その『なかなか接することができない存在』が、『街の外でうろうろしている』。
……街の中で男性を連れまわしていちゃつくことは、世間の目が厳しすぎてできない。
だが、街の外、誰の目もないところであれば……
好きなだけ、『理想』を実現できるのではないか?
実際にそれをやったのがタマであるが……
この世界の女性、特に百年単位で男と触れていないような巫女たちは……
男に飢えていた。
なので、茶屋にいる女どもの目に、殺気にも似た何かが走る。
全員がそれとなさを装って席を立ち、使った食器類を平静を装って片づけ……
店を出ると同時、巫女の優れた脚力で一斉に駆け出した。
結果、タマと、タマに連絡を持って来た女だけが残される。
青毛の女は、叫んだ。
「どうして普段はグダグダ話すのに都合の悪いところだけわかりやすく短くまとめるんだよぉ!?」
タマは茶を口に含み、
「店員までいなくなってしまったな。僕の優れた頭脳はもう少し甘味を欲しているのだが」
理知的にため息をついた。
やれやれ。