タマ。
それは美しく貴重なものを示す『玉』であり、人の内側にある人の本質、心のありかという意味の『魂』である。
この名をつけられたタマが『巫女』の才能に目覚めてからおおよそ三百年。ずっとずっと、多くの人を守るために活動を続けてきた。
巫女の才能というのは貴重だが希少ではない。
質を問わないならば多くの者が……おおむね人口の二十分の一程度が『巫女』の才能に目覚める。
だがその中で、自分の生まれた地域の外から救援要請を飛ばされるほどの巫女は一握り。
タマもまた、その一握りの才覚を持つ巫女である。
が。
(いやいや、なんだいあの動きは。彼ってば男だよねえ?)
その『一握り』の巫女をして、ディの動きは異様だった。
速度がある。力がある。
だが、相手はどう見てもヤマタノオロチ。
タマは使命感の強い方ではないので、できれば遭遇したくない相手である。いや、大妖魔討伐のために、普段は地域をまたがないような巫女まで集めて、大々的に討伐隊を組織しているのだから、いずれは遭遇するのだろう。
けれど、『行方不明の男性を探して、夜の城塞都市外で一人きり活動している時』というシチュエーションでは絶対に出遭いたくない、そういう相手だった。
ヤマタノオロチはその巨大さ、巨大なくせに昼間にはまったく姿がどこにあるかもわからない隠密性、もちろん巨大ゆえに強く、その攻撃が大規模になりがちで、さらに『巨体を持つ者は遅い』という間違ったイメージを粉々に砕くような異常な速さまである、正真正銘の化け物だ。
巫女たちが百名ほど集められているが、それでも勝てるという空気はまったくない。そういう相手なのだった。
だが、
(どうして渡り合えるんだい?)
タマの目の前で起きているのは、そういう奇跡だった。
ディが一人で
それでも淑女として、巫女として男性を見捨てるわけにはいかずに突っ込んだが……
(僕の術式がいかに素晴らしいとはいえ、男性がヤマタノオロチと渡り合って、しかも、傷までつけている? ……いやあ、異様だよこれは。……ひょっとすると彼は──強い、のか?)
……『男』が、『強い』。
この世界で長く暮らした者ほど、違和感のある言葉の組み合わせだ。
神力の多寡がそのまま強さのこの世界において、『男』という言葉と『強い』という言葉は絶対に結びつかない。
だというのに目の前で剣を振るう彼は、どう見ても、『強い』としか表現できない。
(僕のサポートのお陰で戦えてる──というわけでもないね、あれは。むしろ、僕の調子が彼に引き上げられているような)
呪符を飛ばす。
タマが得意とするのは『時間』に働きかける術式だ。
符にあらかじめ刻んでおいた呪文を、投擲によって発動させる。
すると効果範囲内に入った対象の『時間』を停止させる。
強い術式だが、万能には程遠く、最強とも呼べなかった。
時間が昼間であり、相手が自分より『力』の弱い妖魔であれば解除まで停止させ続け、その間にトドメを刺してしまうこともできる。
だが、ヤマタノオロチぐらいの者となれば、速度に多少の
しかも『符』は事前に準備せねばならず、ヤマタノオロチに作用させるには一度に三枚は投げねばならない。
使った符は燃え尽きる。燃え尽きると効果を失う。
タマの得意とする術式は直接的にトドメを刺すような攻撃ではなく、事前準備が必要で、準備したものが尽きると使えなくなるという、不便なものだった。
その不便な術式をなぜ使おうと思ったかと言えば、『才能に基づき実戦経験を積んだ末に、自分に合っているのがこのやり方だったから』としか言えない。
言えなかった。
だが、今は、こう思う。
(僕は、彼を手助けするために、この戦い方を研鑽してきたのかもしれないね)
男が、強い。
組み合わせ難い二つの単語だ。
頭の中で想像してさえ違和感がある。声に出したらきっと、その据わりの悪さに首をかしげてしまうだろう。
そのぐらい、『男』というのは『弱い』ものだ。
だが……
「わかってきた、ような気がする」
ヤマタノオロチの体に裂傷を入れながら、ディがつぶやく。
「そうか、この『未来』に至る俺は、もしかして……」
物思いにふけっている。
流星のように飛び交う九つの頭に襲われながら、物思いにふけっているのだ。
もう、タマの中に疑う気持ちはなかった。
(彼は、強い)
しっくりくる。
男性を強者とみなして、こんなにしっくりくることがあるなどと、人生の中で一度も想像したことがなかった。
(僕はきっと、彼を助けることを『シシ様』に使命として与えられて、今この時まで、時を操る符術を修めてきたんだね。けれど……)
呪符切れが、近い。
今のペースであれば、あと十分ももたない。
彼はヤマタノオロチを倒すだろう。タマはそう確信していた。
どのように倒すかはわからない。だが、そう信じられる。彼の戦いぶりは、それぐらいすさまじかった。
その戦いに、もうすぐ噛めなくなる。
それは、とてもイヤだった。
ヤマタノオロチにとってよほど魅力的な餌なのか、ヤマタノオロチはタマに見向きもせず、一心に彼を狙っている。
……ディが把握漏れしていた、『片刃剣士』の特性の一つである。
『鋭い切れ味の剣を使う』『少し先の未来を予知できる』『毒に強い』。そして、『妖魔にやたらと狙われ、妖魔がディ以外に見向きもしなくなる』。
さらにもう一つ、ディもタマも気付いていない特性があった。
それをはっきりと認識できない限り──
「うん、今は無理だ。逃げよう」
──まだ、ヤマタノオロチには勝てないと、ディは判断した。
タマが思わず動きを止める。
それから、声を発した。
「……いや逃げるならいいけど……えぇ? なんだか君、倒しそうな感じじゃなかったかい?」
「まだ無理だ。でも……つかんだ。次は、勝つ。勝って、こいつを喰う」
強い。
強いのに、逃げることにためらわない。
もしもタマの知る『男』という生物が彼ぐらいの力を備えていたら、きっと、あの連中は『逃げるだなんて絶対に嫌だ』と、何がなんでも『今』『ここで』倒すことに拘泥しただろう。
その冷静さは……
「君の対応は非常に僕好みだ。もしかしたら君と僕とは、前世において恋人同士だった可能性があるね」
「それで悪いんだが、どうにかならないか?」
「わかった。君の戦術的判断を僕は肯定しよう。
タマはそこまで言って、次に続けるべき言葉を自然に思い浮かべ、笑った。
だって、
「……その間、僕を守ってくれよ」
巫女が、男に、『守ってくれ』だなんて。
普通であれば情けない。というか、守るなんて、男にはできない。巫女が守られるほどの事態が発生してしまえば、男なんか役立たずだからだ。
だけれど今の言葉は本当に自然に頭に浮かんだ。
「任せろ」
ディの対応に、タマは思わず喉奥から不思議な声が漏れるのを自覚する。
(すごい、すごいな。初めてだ。すごい。この胸の高鳴り。この興奮。この歓喜。なんだろう。叫び出したい!)
袖を振る。
中に入れていたすべての呪符が、空間に飛び出す。
百枚を超える符が、空中で停止する。
タマが熱に浮かされたような顔で声を発した。
「君の名前を教えてくれ」
「ディだ」
「そうか。ディ。いい名前だ。なんだか聞きなれない響きだね。聞きなれない響きというのは、いかにも不可思議な──」
「しゃべってる場合でいいのか?」
「──仕方ない。あとにしよう」
符の配置が終わる。
タマの色素が薄い瞳の中に、一から十二までの数字が刻まれた円盤が浮かび上がる。
「かしこみ、かしこみ、かしこみ申す」
朗々と歌い上げるような詠唱だった。
ディに集中していたヤマタノオロチが、その首の一つを差し向けようとするほどの力が、タマから発せられていた。
……だが。
タマに迫る首が、ピタリと停止した。
「かけまくも畏き『えいりええす』。諸々の禍事、罪、穢れあらむをば、祓え給え、清め給えと申す事、聞こしめせと、かしこみ、かしこみ、かしこみ申す──」
白い光が、夜を昼に塗り替えていく。
普段、符を飛ばして空間に発生させるのが『時を止める術式』であるならば……
この業は、時を司る神性。その力を最も効率よく受けるための、神域の形成である。
ヤマタノオロチの動きが鈍る。
ぎしぎしと動こうとするのに何かに押さえつけられるがごとく鈍り……
そうして、完全に停止した。
同時にタマが倒れる。
それを、いつの間にかそばに来ていたディが支えた。
「すごい術だ」
「そうだろう。でも触るとまた動き出す。一撃で殺せないなら、今は逃げるべきだね」
「ああ。……手助け、感謝する」
「感謝の気持ちを示すならお姫様抱っこでいいよ。君に抱き着いて君に僕の匂いをつけてやろう」
自分の力で立ち上がることもできなさそうだが、思ったより元気そうだった。
ディは──
タマをお姫様抱っこしながら、ヤマタノオロチを振り返る。
……タマが作ってくれた『逃げるためのチャンス』。
これは相手が完全停止しているからこそ、必殺の機会でもあるのは、わかる。
だが……
(足りない。まだ、俺はこいつを殺しきれない)
どのように自分がヤマタノオロチを倒すのか。
最後の一つのピースが欠けている感覚がある。
だからディは、
「……絶対にお前を喰ってやる」
決意を口に出し──
タマを抱きかかえたまま、その場から離脱した。