ディは悩む。
(さて、困った。蹴散らすわけにもいかない感じがするな)
……アーノルドの時。
あの時に自分がもっと注意深く『神の気配』を感じ取れていれば、もしかしたらアーノルドは死なずに済んだのではないか、という後悔があった。
人の急激で急進的な行動の陰には『神』がいると疑ってかかった方がいい。
そういう猜疑心に基づいて考えれば……
(ミズクメとは昨日、確かにもめた。彼女の方針は『男性保護』で、それは俺の実力とは関係がなさそうな……『この世界の女のジェンダーロール』みたいなものに基づいていたようにも思う)
そもそも、『施設に入れ。入らないなら実力行使だ』みたいなことは、昨日すでに言われていたことではある。
ヤマタノオロチ出現でなあなあになっていただけで、出陣するまではその話をしていたし、その時も剣呑な気配はあった。
だから、つまり……
(………………しまったな。コミュニケーション経験が乏しいせいで、人の心情の変化、心の機微がさっぱりわからない)
顔色をうかがって望みを把握するのは、勇者アーノルドで慣れていたように思う。
だが経験値としては低かった。アーノルドは面倒くさいがわかりすいヤツだ。モンスターの
タマも同じ基準で考えれば一かそこら。
対してミズクメはかなり高い。三十、あるいは五十はあるだろうか。
常に微笑を浮かべている黒髪の巫女は、高い神力ゆえに長い時間を生きたのだろう。『男の前だとおかしくなる』らしいが、その表情から内心が読み取れるわけではなかった。
(まぁ、神降ろしだとかいうのをした時に、ミズクメが降ろした神が、ちょっとこっちを見ている気がした……そこは頭の片隅に置いておくとして)
ディは反応を決める。
「……その命令は呑めないな。俺には、この世界でやりたいことがある。それに、君たちに危害を加えるつもりもないし、ヤマタノオロチ討伐には、かなり積極的なつもりだ。だから、見逃してほしい」
なるべく穏便に申し出たつもりでいた。
だが、その穏便は、
「『危害を加えるつもりもない』?」
……どうやら失敗だったらしいと、ミズクメの声音でわかる。
「ディさん、あなたは勘違いしているようですが──巫女は強いのです。あなたが危害を加える想定など、していません」
「……何かプライドを刺激してしまったのなら謝る。とにかく俺は、君たちと争うつもりはないんだ」
「ええ、我々もありません。わたくしがしようとしていることも、後ろの、わたくしと同じ
「『託宣』にいい思い出がない」
「『女に生まれたからには、男を守れ。男より弱い巫女に、存在価値などない』」
「……ああ、そういうこと言いそうだな、神というのは」
「ディさん、あなたを守ります。あなたが前線に立つことを許しません。ヤマタノオロチ討伐は、わたくしどものみで執り行います。これが、ヤマタノオロチを討伐するために集められた巫女たちの長としての、わたくしの決断です」
「今はっきりした。君たちは敵じゃない」
「ええ、そのつもりでおります」
「そうじゃない。そうじゃないが──君たちの後ろに神が見えた。だから、神の言うことには従えないな」
「では、実力行使ということで」
「困ったな、争いたくない」
「ええ。ですから──」
ミズクメの微笑が霞む。
瞬間、彼女がディに向けて踏み込んでいた。
「──『争い』にはしないつもりです」
一方的な、確保。あるいは、蹂躙。
この世界における男女の力量差から考えればまったくもって適切な認識だ。ミズクメの動きは、女の中の実力的上澄みである巫女、その中でもさらに一部の上澄みにしか捉えきれぬもの。洗練されていた。単純に速かった。速度と技術のある一歩。
その『一歩』を見ただけで、ディは、感動さえ覚えるのだ。
……通常捉えきれぬ『一歩』を見て、対応したディは、思わず、つぶやいた。
「素晴らしい動きだ」
ミズクメは素手。
ディの手首をつかんでいる。
だが、つかんでいるだけだ。
「今の動き、手首を起点にこちらを投げる技だな? ……どう考えても対人技術だ。君がいつも使っている長い剣から、大型妖魔の相手を専門にしているのかとも思ったが……人型相手でも、実力者なのだな」
「………………あなたは」
「この技術、何かの流派を感じる。興味がある。教えてくれないか」
「どうして」
「……なんだ?」
「どうして──言動一つ一つで、女の気持ちを逆立たせるのですか!?」
ミズクメが、『技』から『力』に切り替えた。
手首を引っ張り、同時にディに背を向けるようにして、引き込んだ腕を肩に乗せて投げようとする。
背負い投げ、それも一本背負い。
しかもこの手首の取り方で極めれば、投げると同時に肘を折る。そういう投げ方だった。
巫女の中でも上澄み、つまり神力の強いミズクメの一本背負い。
これを耐える者は巫女の中でもそうそういない。
だが、ディは、
「単純な力では、俺の方が上のようだ」
引き込まれる力に、力で逆らい、投げられるのを阻止する。
ミズクメは奇妙な汗がしたたるのを感じた。
(力で、負けている……わたくしが、男に、力で……!)
それは悔しさだった。怒りだった。
……だが、それよりもなお強い、今までの人生で感じたことのない感情の高ぶりもあった。
ミズクメはその感情の名前を知らないが。
その感情のせいで、息が荒くなり、体が熱くなり、目が充血し、心臓の鼓動が早まる。
『自分を力で圧倒する男が、真後ろに立っている』。
この事実がどうしても、ミズクメに、『興奮』を促していた。
「ッ!」
自分の感情を拒絶するように、ディから距離をとる。
ディは、
「タマ、悪いんだが、付き合ってくれるか」
「えぇ? どうしよっかなぁ? ……いいよ」
タマに呼び掛ける。
タマが、符を投擲した。
「なっ、タマ、あなた──」
「衒学的な物言いに聞こえてしまうかもしれないが、僕はね、こうして男性と二人で逃避行をするのが夢だったんだよ」
「またくだらないこと、を……!?」
巫女たちの動きが──『時間』が止まる。
ミズクメは戦慄した。
(おかしい……彼女の時空間を操る力、これほど強くはなかったはず!)
動けない。指一本。
ミズクメがこの状態なのだ。後ろの巫女たちは、意識さえも断絶していた。
その『時間停止』した巫女たちの横を、ゆうゆうと、ディとタマが歩き……
「……とにかく俺に、敵対の意思はない。俺の目的もヤマタノオロチだし、最終的には肉を喰いたいだけだ。だから……君も、考えてみてくれないか。見下ろしているだけの神の声と、同じ地平に立つ俺の言葉、どちらを信じるのか」
そう言って、去っていく。
残されたミズクメは、
「…………認めない」
興奮。感動。
本能。呪い。
女としての役割。神の言葉。
「……認めない」
様々なものに心を千々に乱されながら、奥歯を食いしばり……
「認めない……!」
『あしらわれた』事実を噛み締める。
腹の底に残る感情は、彼女が長い人生で一度も経験したことのないものだった。