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第33話 神と巫女

『男に二度も逃げられた巫女』


「……」


 男性というのは貴重な存在であり、管理されるのが当たり前になっている。

 このシシノミハシラの世界においてしし様の加護を得ているのは、獣の特徴を備えた生物──つまり、女のみだ。

 そして、その『女』の中でも一握りの力を持つ者こそが『巫女』であり、ミズクメはその巫女の中でも最上位とされていた。


 それが、『男に二度も逃げられた』。


「……認めない」


 この世界において巫女というのは重要な存在に違いない。

 ……ただし、この世界において、巫女というのは不遇な存在でもある。


 巫女の多くが男日照りであり、長い者では数百年も男性と触れ合う機会がない──という事実があった。

 それは、妊娠すると巫女としての力を失うからだ。


 皮肉なことに、妖魔に対して有効な兵器・・であると認められてしまうほど、男性との距離が遠ざかる。

 この世界において巫女というのは重要な存在だが、あくまでも重要な戦力・労力・・であり、政治的・権力的に──発言力はもちろんあるにせよ──中心的な存在ではなかった。


 だから、『男が逃げています。これを捜索し連れ戻します』ということで巫女たちを動かすならば、いわゆる『偉い人』に相談をせねばならない。

 そうして『偉い人』には、その行動の可否を報告せねばならず……


 結果として、ミズクメは、『強者であるはずの巫女なのに、弱者であるはずの男性に二度も逃げられた』という評価になっていた。


「認めない」


 現在、ミズクメがいる場所は、領主屋敷の離れであった。


 いわゆるところの謹慎状態。その実力に疑問を覚えられてしまったために、協議によって結論が出るまでそこで大人しくしていろ、ということであり、ミズクメはこれに従っていた。


『ミズクメほどの巫女が手間取る上、多数の巫女がその男性の強さを認めている。だから、今回ターゲットになっている男性が特例であり、ミズクメの実力が衰えたり、何かの私事によって手心を加えたりしているわけではない』というのは、想像力を働かせれば誰でもわかるだろう。

 少なくとも、物事の理非を判断する知識と情報を持った者は、そこを理解している。


 けれど……


 いつだって、どこの世界だってそうだが。

 社会という構造の中において本当に力を持っているのは、一部の強者ではなく、大多数の、事情を知らぬ、当事者ならざる弱者である。


 政治や社会がそれら『弱者』一人一人の活動によって成り立っている以上、弱者の意向を無視するわけにもいかず……

 当事者ならざる者どもに届くのは、せいぜい一言。


『優れた巫女のミズクメをして二度も男性に逃げられた。これは、その男性が特例であり、多くの巫女たちがそれを認識している』という長さでは届かない。

 トピックスとしての派手さも加味して、『優れた巫女のミズクメが男に逃げられた』。

『その他大勢』に届くのは、その程度のメッセージであり、この『意外で面白いトピックス』は好き放題に騒がれ、世論を作り出すに至っていた。


「……」


 ミズクメは畳の上で正座し、目を閉じている。

 美しい姿勢だ。ただ座っているだけのその姿さえも、神への祈りを捧げるためのなんらかの儀礼に則っているようにさえ見える。


 黒髪の美しい巫女は、ただ目を伏せてそこにある。

 小窓から差し込む光は茜色。『離れ』の中にミズクメの影が長く落ちている。


 ……たとえば。

 ミズクメが、規範よりも己の衝動を優先する人格であれば、こんな扱いは不服とし、すぐに『離れ』を飛び出していただろう。

 だがミズクメは規範を気にする性分であった。

 というよりも、


(力ある者は、人々のために尽くさなければならない)


 ……彼女は、長く生きすぎていた。

 もともと真面目であった彼女は、巫女という巨大戦力が傍若無人になりすぎないようにと定められたその決まりを重要視する生活をしすぎていた。


『人のために』活動を続け、神に認められ、あまたの神楽かぐらを舞い、強敵を倒し続けてきた彼女は……

 真面目であることで成功体験を積みすぎた。


 それゆえに、彼女は規範から逃れられない。

 この神の息吹を実際に感じ取れる世界において。神の息吹こそが巫女の力となり、その正しさを証明する世界で。

 神に認められるほど真面目に規範を守り続けてきた彼女は、規範から外れた時にすべての加護を失い……


 自分がただの女になって。

 巫女でもなんでもない、数百年もあり続けた『自分』ではなくなることを恐れていた。


(女性は男性を守らなければならない)


 その生き様、己を律する姿。平時であれば『立派な巫女様だ』という評価になる。

 実際、立派だ。力のある者がその力に溺れずに戦い続け、ここまで生きてきた。彼女の人生には失敗も挫折もなかった。ただ真面目に生きるだけで成功を続けた。


 だから、


(男性は守られるべき弱者)


 バグが起こっている。


 数百年という時間は長い。

 その時間ずっと『そう』あり続けてきた生き様を、柔軟に変えられる者など、この世に何人いようか?


 自分が守り続けてきた社会に愛着があり、自分の所属するコミュニティを大事にし、そこでの居場所を守ろうとするのが『普通の、真面目な人間』だ。

 あっさりと捨てられるほど思いきれる者は、普通ではない。


 ……だからミズクメの脳裏には、あの白い巫女が──タマが、よぎるのだ。

 自分ほどではないが生きていた。自分ほどではないが成果を挙げていた。評価されていた。巫女の中でのコミュニティに属していた。仲間がいた。


 だが、あっさりと裏切った。


 全部捨てて、男についていった。


 その衝動的な決断に怒りを覚える。

 だが、一方で……


(…………わたくしには、できない)


 うらやましさも、覚えていた。


 もしも神の声や世間の常識、これまで築いてきたすべてを捨てて、あの時、ディの味方に回れたら、どんなによかっただろう?

 できなかった。彼が強いのはわかっていた。彼を捕らえるべきでないのも、今からなら、かなり、そう思う。

 でも、できなかった。……『今までの自分』『社会に期待された自分』『成功してきた自分』から外れた行動をとるのが、怖かった。


 あまりにも『神』とともにありすぎて──

 神の求めに逆らうのが、怖かった。


「『わたくし』とは、なんなのでしょう」


 ミズクメの声はぽつりとささやくようだった。

 だが、声を出した当人の中で、その声は強く強く響いた。


『自分は、何か?』


 長年築き上げた『正しさ』を見失いかけた彼女は、何かにすがりたかった。

 すがりつく相手は──


 頭に一瞬、『彼』の顔が浮かんで。


 けれど。


「わらわの巫女よ」


 ……一瞬の意識の断絶があった。


 ミズクメが、知らずに下がっていた顔を上げると……


 茜色の日差しの中に、黄金の粒子が舞っていた。

 その粒子はヒトのようなシルエットをとり、ミズクメの目の前にある。


 ……そのシルエット。

 この世界における『ヒトのよう』とはすなわち、獣の耳と尻尾を生やした人型。

 ただし、その尾は九本も存在した。


 ミズクメは、慌てて頭を下げる。


 その声。その象形。

 ──アメノクリミコト。

 ミズクメに力を与える神。『八百万やおよろず』と言われるほどの神の目が向くこのシシノミハシラでも、最高の一柱に数え上げられる存在であった。


 いきなりそんなモノが、シルエットだけとはいえ姿まで現し、声をかけてきた。

 もちろん人生の中でここまではっきりと神の姿が見えた経験もなければ、記録の中にもこのような事象は存在しない。

 ミズクメの混乱は、言葉も出ないほどだった。


 神は、柔らかい、しかしどこか見下すような響きの声で、続けた。


「わらわの巫女、ミズクメ。おもてを上げよ」

「は……」

「あの男を捕らえること、適わぬようじゃな」


 それはミズクメにとってめまいさえするほどの言葉だった。

 世間に責められている。そのうえで、神にまでそう言われてしまう。

『自分』が揺らぐ。

『自身』を見失う。

『存在証明』が消え去る。

 ……うまく、呼吸ができない。


 アメノクリミコトは、優しい声音を発した。


「理解は及んだかえ? ……あの男は、『特別』じゃ。そなたが未熟なのではない。アレを『男』と思ってはならん、ということじゃ」

「……は、いえ、その……」

「自分を責めるでない、ミズクメ。そなたは充分にやっておる。わらわにとって、理想の巫女であるぞ」

「………………」

「だからこそ──理想の巫女たるそなたでさえも、どうにもならん男だと、理解せよ。理解し、アレを『男』と思うのをやめよ。アレは、うち滅ぼすべき敵じゃ」

「し、しかし」

「人型の妖魔。神を殺すモノ。……ミズクメよ」


 アメノクリミコトがミズクメの耳へ顔を寄せ、優しい声音でささやく。


「難しく考えることはない。男型の・・・妖魔・・を、倒せ。巫女として、役目を果たせ。それだけじゃ」

「……」

「これまでそなたがやってきた通り。舞い、剣を振るい、斬れ。……ああ、もちろん、あの男は、わらわにとっても『滅ぼすべき敵』じゃ。せっかくわらわがこの世に布いた決まりをゆるがせにする、憎き──例外」

「……クリミコト?」

「……ほほほ。そなたに力を与えよう。そして……舞うのじゃ、ミズクメ。さすれば──」


 その時、クリミコトがもし受肉じゅにくを果たしていたならば、彼女の表情の変化が克明にわかっただろう。

 クリミコトは、笑っていた。

 ……悪辣な笑みを、浮かべていた。


「──わらわそのものを、そなたに降ろすことも可能じゃろう」


 ……神がヒトの世に干渉する手段は限られている。

 紳士協定的に『これ以上をすれば、他の神々に白眼視される』というものがある以上に、『上から物を落とせば下に落ちる』というような法則と同等に、超えられない壁というものが存在する。

 そういった壁を超えて、『上から物を落として上へ落とす』というようなことをするには、なんらかの力が必要だった。


 その『力』こそがヒトの意思であり、願い。


 ……かつて、ディの故郷世界で女神インゲニムウスがやったように。

 神が人の世に降りるには、一部の超例外を除き、『依り代』が必要になる。


 ……そして。

 神降ろしにて戦う巫女は、依り代として優れた肉である。


 女神インゲニムウスが勇者という強い縁を持った魂を依り代としたように。

 女神クリミコトもまた、ミズクメという相性のいい魂を依り代にしようとしていた。


 そして、このシシノミハシラにおいて、依り代に選ばれるというのは……


「……光栄です。アメノクリミコト」


 巫女にとって最上の栄誉。

 その神楽が、生き様が認められたと実感できる、誇るべきこと。


 だからミズクメは、もう一度頭を下げた。


「あなたのために、舞います。どうか……どうか、わたくしを、お導きください」


 女神が笑う。


 ……そもそもにして、生きるためのしるべを見失ってさまよう者を導くのは、神の専売特許である。

 かくして、ミズクメに新たな旋律が授けられた。

 迷い、戸惑う巫女の心には……


(ディ。あの男……いえ、妖魔を殺す。それが、『正しい、わたくしの在り方』なのです、よね)


 光明が灯った。

 ……暗闇の中ですがりつきたくなるような、あまりにも蠱惑的な、黄金の光だった。

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