変わったCランク様だ。
それがFランクのイワンが抱いた感想だった。
イワンは物心ついてから五年
Fランクの中では古株ということになるが、それだけにこの世界のことをよく理解しており、上の者の目に触れないのが生き残るために最良の戦術だということをよくわかっていた。
だからDランクの気配が近づいてきたら隠れる。
ましてF・Eランクしかいないような区画に、綺麗な緑の
だが……
(どーして俺は、物陰から出て行っちまったのかねぇ)
粗末な小銃を抱えながら、イワンはため息をつく。
灰色の瞳には深い憂いと後悔がある。たった五年この世界で生きただけでもう、その顔には絶望することに慣れ切ったような諦念がこびりついていた。
……だから、かもしれないとイワンは思う。
(このまま生きてても、楽しいことはなんもありゃしない。……培養槽から出てからはがむしゃらに、死にたくないって恐怖に突き動かされて生きてきたけど……生きてたって、楽しいことなんざない。ただ、死に怯える時間が長くなるだけだ。だったら、少しでも面白そうなことをして、死にたい)
それが、彼が『Cランク様』の誘いに乗った理由のすべてだった。
希望があるとか期待をしたというより、『最後に笑ってみたかった』。だから、変わったやつに従った。そんなものである。
D・Fランクをあの戦場に連れていく荷車に積み込まれて、屋根もない粗末な台座から、進行方向にあるものを見た。
どんよりと空を閉ざす黒雲の下には、うごめく赤褐色の肉のドームがあった。
あれこそが
いつ見ても気持ち悪い。知れば知るほどおぞましい。
一説では、あの巣の材料にされた者は、死ぬことができず、永遠に苦しみ続けるとさえ言われている。
かつて地上にあった宗教。そこで使われていた『死んでも逃れられない苦しみを与える場所』としての『地獄』。
当時とは宗教体系も変わった。
だから信仰上にしかいなかった神や精霊は消え去り、それらが住まう神の国や天国なんていうものも消え去った。
だが、地獄だけは残った。それが今から向かう先にある
イワンはいつも、あの肉の繭に近づく羽目になるたび、胸に重苦しさを覚えていた。
その重苦しさから逃れたくて『目立たないようにする』という行動をとり続けた。……生きていたいと思っていたというより、あの本能的なおぞましさを感じる肉の繭から遠ざかる人生を歩んでいたら、ここまで生きていた、と言う方が感覚的には正しいかもしれない。
そのクソッタレな肉の繭から──
「
──どうやら、巣の拡張タイミングとかち合ってしまったらしい。
「チッ」
イワンは舌打ちをした。
Fランクに生存の可能性がある状況というのは、巣の中に怪物が留まる『安定期』のみだ。
コンピューター様以外の目が通らないそこで、怪物に遭遇しないように身を潜めていれば、生き残る確率は高い。
真面目に奥に進んで怪物を倒そうなんていう夢を見る者から死んでいく。だから巣の中で、後ろから来る仲間に見つからず、怪物にも見つからない安全地帯を見つけること。これが生き残るコツになるのだ。
だが、怪物が巣を拡張しようと出て来た『活動期』に、安全地帯など存在しない。
「次々出てきやがる!」
巣の外を目指して怪物どもが一斉に湧き出してくる。
この巣はどうにも『ねずみ』どものものらしい。百、千、万では利かない数の、手のひらより小さい灰色の動物が、小さな人面と人の足をミニチュアにしたような尻尾を振りながら、おぞましい声をあげて押し寄せてくる。
津波のようだ──とイワンには思い浮かばなかったけれど。その光景はおぞましい津波。すべてを喰らいつくす獣の波だった。
イワンは銃を構える。
あの数に対してたったこれっぽっちの弾数で何ができるかはわからない。
だが、体はやはり、生存を望んでいた。
……というより、笑ってしまうぐらい、もっと後ろ向きな感情で動いていた。
(確かに、生きてて楽しくもなんともねぇ。なんで死に怯えながら生きなきゃならねぇんだって、そう思ったよ。でもなぁ──それは、『あんな怪物に喰い殺されてもいい』って意味じゃあ、ねぇんだよ!)
なぜ生きていたのかを思い出した。
死に方を選びたかったからだ。
笑って死にたい。
だから、変わったCランクの呼びかけを前に、のこのこ、隠れていた場所から出て行ってしまった。
「最悪だ! コンピューター様、万歳!」
それは皮肉である。
すべてを差配し、人類の生存を志し、演算を続ける、この地上の『神』。『マーテリンスキカンピューター』──通称『マーチ』。
その神たる演算は人類を生かすために行われていると言われていた。
だからこそ。
自分たちが『人類』の中に含まれていないのを実感するたび、クソッタレなコンピューター様のことを意識させられるのだ。
だがおおっぴらに文句なんか言えない。コンピューター様は人々の監視に熱心だ。
だからこそ皮肉気に叫ぶ。
そこかしこから、
「クソがよ! コンピューター様、万歳!」
「ああああやだああああ! コンピューター様、万歳!」
吐き捨てるような万歳が聞こえて来た。
……この時、彼らの意識から、『Cランク様』のことは消えていた。
それはそうだろう。こんな絶望的な戦場、見た瞬間にCランク様は帰るはずだ。
そもそもCランク様が同じ戦場で同じ敵に立ち向かうなんていうことは、まずありえない。だから彼らはすっかり、この場所にCランク様がいることを忘却していた。
忘却された男が、
踏み込んだ。
進んで行く荷車の前。F・Dランクの兵士たちと、ねずみどもの間に立つように降り立ったディが、強く踏み込む。
その踏み込みと同時に足から波動が発生し、それはねずみどもの生み出す獣波とぶつかり……
ねずみどもを、吹き飛ばした。
「指揮はできない。だから、簡単なことを命じる」
一歩、二歩。
それほど巨体というわけでもないディが進むごとに、大地が揺れ、不可視の波動がねずみどもを蹴散らしていく。
「俺の背中についてきて、討ち漏らしを討て」
ディが、人面ねずみの群れへと飛び込んでいった。
爆発が起こる。
Fランクのイワンからは、爆発としか思われなかった。
だが、よく見れば──呆けて、見惚れてしまえば、わかる。あれは火器ではないのだ。爆弾でもない。上位ランクの者が最終手段的に用いる、『下位ランクを敵に投げつけて処刑し、その爆発によって敵を蹴散らす』というものでもない。
拳と、足。
強いて言えば他には、肘と、膝。
飛び掛かる人面ねずみどもを払い散らすのは手足であり、踏み込みによって発生させる衝撃波で小さなその連中を蹴散らしていく。
ねずみどもは知能がないのだろう、喰いでのある肉であるディがそこにいるから、飛び掛かっていく。
すさまじい数が四方八方から襲い掛かる。ねずみの総数は万でさえなく、億にまでのぼるだろう。まさしく津波。人を骨も残さず喰らい尽くす灰黒色の津波だ。
だがその中で、ディの周囲だけがぽっかりと空白地帯になっている。
接近するねずみどもを、手足だけで完全にさばききっているからだ。
たった一人、その身を最前線において、ねずみどもを引き寄せている。
「『討ち漏らし』が来るぞォ!」
誰かの声に、イワンは我を取り戻す。
あまりにも美しくねずみどもを蹴散らす『Cランク』。
だがそれでも、すべてを蹴散らしきることはできていない。漏れて来たものが、自分たちにも迫っている。
その『漏れて来たもの』だけでも、かなりの数になる。
だが……
「……ははは。おいおい、こいつは──」
先ほどまでの、絶望感がない。
死という不可逆な運命へ向かっていたと思っていた。その時に体に覆いかぶさるように重苦しかった諦念がない。
イワンは、笑っていた。
「──面白くなってきやがった!」
勝てる。
死力を尽くせば、勝てる。
その実感がある。
それは細い細い、いまだ乏しい……
けれど、この世界で生きてみて、初めて抱いた、希望。
「進め進めェ!」
イワン以外にも笑っている者がいた。
人生の最後に楽しい思いをしたかった。
どうせ死ぬなら笑って死にたかった。
だが、実際に笑ってしまうと、
「生きねぇとなぁ!」
……そういう気持ちになるから、不思議なものだった。
──戦果。
人面ねずみの
死傷者数──
ゼロ。